わが子を通して問い直す
ミス日本2024のニュースをきっかけに、日本らしさとは、日本人とは、国籍とは、アイデンティティとは、ということについて、日々、考えてい続けている。しかしその答えは、当然のことだが簡単には出てこない。
1ヶ月前のnote記事で、私は以下のように書いた。
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つまり、このときの私の観点では、“日本国籍を持ち、日本語で思考し、日本人であると自認している椎野さんは日本人である”ということになる。この記事を書いたときには、素直にそう考えたのだけれども、息子を見ていると、この考えはやはりちょっと違ったなと思わざるをえないのだ。
丸3年のロンドン現地校生活を経た今、息子は日本語よりも英語の方が優位になっている。それについては前回の記事にも少し書いた。
ということは、英語が優位で、主に英語で思考している息子は、私が日本人としての要素として認識した“日本語で思考すること”という点が大きく欠けているということになる。
しかし、私はどれだけ息子の日本語が下手になろうと、英語優位になろうと、紛れもなく“日本人である”と自他ともに認識している私と夫の間に生まれた息子は、やはり紛れもなく“日本人である”と認識している。
つまり、日本語で思考し、日本語を使いこなせるということが日本人としての重要な要素であると考えたけれど、それが決定的な要因ではない、ということを、わが子を通じて再認識したのである。
息子が日本人であるという認識を私の中で決定付けているものは、どの言語を使っているかということではなく、日本人である私自身が、彼の母親であるからだ。
そうなると、私は何を持って、どのような条件を満たすことで日本人と認識するのだろうか。改めて考えなおす必要が出てきた。
その問いを改めて考え直す前に、息子と娘について、彼らの置かれた生活環境、言語環境について、改めて振り返ってみようと思った。
非常に長くなりそうなので、これから何回かに分けて書き進めていくつもり。途中で投げ出さずに書き続けられるかしら。