偶数が好き

昨日これを投稿したのだが、ミスって削除してしまったので再投稿する。思いつきで書いたウンコみたいな下書きを削除しようとしたら間違ってこれを消してしまった。公開済みのやつを消す時はゲームのセーブデータ並みの問答してくれないかなと思う今日この頃である。

片桐和也はこだわりの多い男である。その一つが数字のこだわりだ。片桐和也は偶数が好きだ。厳密には偶数と、5と5の倍数が好きだ。5と5の倍数はかわりべんたんで奇数だが、5と5の倍数はスパッと気持ちがいいので認めている。名誉偶数とでも言おうか。むしろ場合によってはそのへんの偶数より優遇している。

テレビの音量なんかがわかりやすい例で、絶対に偶数にする。27とかは最悪で、その27という奇数で表される音量を自分の耳が享受していることが気持ち悪い。即刻28にする。多少うるさいと思っても28にする。多少うるさいと思ったら26にしろよ、という意見もあるだろう。しかし、俺は上述したように5と5の倍数であれば特例として最寄りの偶数より強い権限を与えている。すなわち26にするんだったら、25にしないと気持ち悪い。そうなると27が丁度いいとして、音量を2も下げなくてはならない25だと少し聴こえにくいのだ。
俺の家族はわりと、その時その時のフィーリングでテレビの音量を調節するので、俺が後でこっそり偶数に調整する。

自分の車のオーディオなんかもそうで、絶対に偶数か5の倍数でないと嫌だ。くわえて「俺の車に積んであるそれぞれのCDにふさわしい偶数か5の倍数の音量」を自分の中で定めている。B'zのRISKYというアルバムなら25で、浜田省吾のベストなら18だ。川本真琴の川本真琴というアルバムと、映画レザボアドッグスのサントラは22だ。
このように俺の聴くCDアルバムの音量には、俺なりのジャストポイントがある。ごく稀に「音楽がうるさい」とか、「よく聴こえない」とか言ってそれをかき乱してくるやつがいるが、言語道断である。ウーファー積んでる程やかましくしてて会話もままならないわけでもないし、台風の日でもなければ普通に聴こえる。当たり障りのないラインで俺が手塩にかけて微調整してるのだ。その聖域を侵さないでほしい。その上、変えた音量が奇数だった場合は車から降ろしたくなる。
テレビのようにこっそり偶数に調整しろよ、と言われるかもしれないが、それはそれこれはこれである。そもそもテレビはみんなのテレビ、車は俺の車なのだ。オーナーである俺に音量調整をお願いするならまだしも、家族でもない人間が他人の車のオーディオをアホみたいにくるくるする行為自体非常識だと俺は認識している。もっと憚れやと思う。

それから、俺の車はハードディスク搭載ではないため、CD交換が必要になる。つまり俺はその時聴きたい音楽を吟味して聴いている。俺がその時聴いているアルバムというのは、面倒くさがりな俺がCD交換をしてまで聴く気分だったアルバムだということだ。それを知らずに、「B'zばっかで飽きた」だとか、「この人知らない」だとか、「洋楽は聴かない」だとか、そんな理由で変えようとするやつは言語道断である。そりゃ「世界の脱糞音百選」みたいなのを聴いているならわかるが、そうでないなら他人の車の音まで支配しないでほしい。携帯繋げて自分の好きなわけわからんバンドとか流さないでほしい。次あたり浜省のMoneyが来ると踏んでテンション上がってた矢先に変えられると萎えるんじゃって話だ。
過去そういうやつは女に多い、というと今のご時世非難轟々だろうが、少なくとも俺の経験上はほとんど女だった。特例で幼馴染だけはそれを許しているが、それ以外は言語道断である。言語道断横断歩道である。それをされるとこっちも戦うしかなくなる。「B'zじゃなくて稲葉のソロですぅー!」だとか「浜省じゃ!帰って親父にきいてみろ!知らないのであれば知れ!」だとか、応戦してしまうのである。
心が狭いかもしれない。しかし、さすがに平沢進や筋肉少女帯を聴いていた時だけは、こっちに非があるので言われる前にそっと自分で変えてるので許せ、ということだ。いや、そう言ってしまうと平沢進と筋肉少女帯に失礼だが、まあそのへんは仕方ないよね。知ってる人ならわかると思うけど、車に女乗せる時にかける曲じゃないよね。

また戻るんかいって感じではあるが、車のオーディオの音量の話に戻る。
一度、片桐和也の音量ジャストスポットをかき乱した女に「偶数こそ真理なんじゃ!」と言ってきかせたことがある。すると「そういうのにそこまでこだわるのって病気なの?」みたいなことを言われた。俺はすかさず臨戦態勢に入り「俺たち人間は細胞が2乗倍数で分裂して生まれるわけです、すなわち偶!染色体とて23対、すなわち46組、すなわち偶!これは病気ではなく、人間のあるべき姿なわけですよ!アーユーオーケー?アンダースタン?」と熱弁したらキモがられた。あの時は「あんた5の倍数は認めてんじゃん、奇もあんじゃん」などと反論された時のために「片手の指は5、しかし両の手では10、すなわち偶!」というカウンターを頭の中に用意していたが、ただただ普通にキモがられただけで終わった。「なにそれコワー…宗教かな?」みたいな感じのことを言われた。まあ、後々思い出したらあれはマジでキモかった。激昂して相手に殴りかかったら避けられて壁に激突して勝手にダウンしたようなもんだ。これはしょうがない、キモい。不気味だったろう。多分目がバキバキになっちゃってたと思う。あの時は本当に申し訳なかったと思う。

とはいえ、偶数に対する俺の思いは変わらない。好きな数字を問われれば、俺は迷いなく2と答える。2こそ偶の始祖。そして片桐和也は2月生まれ。日付は23日で奇だが、足せば25になる。5の倍数は認めているのでいいだろう。足していいなんてルールあんのかよ、と言われるかもしれないが、俺のバースデーを足そうが掛けようが煮ようが焼こうが俺の勝手である。まあ2月23日を単体でとっても、北大路欣也とかと同じ誕生日だし、気に入ってはいる。あとなにより現在の天皇陛下と同じ誕生日なので、俺の誕生日は国民の祝日なのだ。学生時代の文集とかに「私は偉業を成す人物なので、私の誕生日は将来的に国民の祝日になることでしょう」みたいなことをクソほど調子乗って書いていたが、マジで国民の祝日になってしまったのだ。ロベルト・ベニーニのライフ・イズ・ビューティフルみたいな話である。

とにかく伝えたいことは、片桐和也は偶数を愛しているってことであり、どれだけいい女でも奇数を愛してる女を嫁にはできないなってことである。あと多分奇数愛してる女サイドも嫁に来たくないだろうし。というかこういう男の異常なこだわりって、普通の女からも嫌われる材料だし、そのへんはうまくやってくしかない。
病気かどうか問われればあやしいが、多分大丈夫だろう。これが人ん家のテレビや人の車の音量まで気になったり、全てにおいて偶数にしないとイライラするようになったら問題だが、社会生活においてどうしようもない場面では奇数があっても割り切ってやってけるので大丈夫だと思いたい。奇数なのに割り切るってのはややこしいが、とにかく大丈夫なのである。

※この記事は片桐和也の独断と偏見です。

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