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「ランゲルハンス島の午後」村上春樹著(新潮文庫『ランゲルハンス島の午後』所収):図書館司書の短編小説紹介

 ダッフルコートにしろ、革ベルトの腕時計にしろ、リュックサックにしろ、かれこれ十五年以上は同じものを使い続けている。
 元々それらに格別な思い入れはなかった。その時々で、「あ、これいいな」と思ったものを、価格以外はそこまで念入りに調べることなく財布をはたいて手に入れてきた。
 布がほつれたり、型が古くなったり、壊れたりしたら、仕方なく買い替えることになるのだろう、と思いながら。
 けれど、数少ない友人や知人から、「それいいね」と言われた途端に、身に付けている品へのこだわりが生まれる。お世辞だったとしても思い入れが出来、気軽に買い替えられなくなる。
 ダッフルコートは、三角錐型の水牛の角で出来たボタンを麻紐に掛けて留める方式なのだけれど、その紐が擦り切れそうになってくると洋服修理の店で直してもらっていた。三回もだ。
 とっくに型も古くなっているので買い替え時なのだけれど、時々「クラシック」という美名の下、その型がささやかな流行りを作ることもあるので、最新の波に乗っているのだという顔をしながら毎年着るようにしている。
 腕時計のベルトは二度替え、電池交換の時に全体を磨き直してもらっている。
 リュックに至っては、使用感が出て来たので二年前にフリーマーケットアプリでわざわざ同じものを探して手に入れた。正規店ではとっくに生産終了になっていたからだ。
 
 それほどに、私は他者の意見に流されやすい。よく言えば、人の言葉を尊重する。悪く言えば、自分の信念が欠けているのだ。
 一事が万事で、食べ物や飲み物、車や雲の形に至るまで、他の人が「いい」と言ったものは何となくよく思えてしまう。
 本作「ランゲルハンス島の午後」についても、実は同じことが起きていた。
 二十歳前後に村上春樹作品にのめりこみ、彼の長編も短編も随筆も片端から読んでいった時期がある。
 そんな時、大学で友人のM君とその彼女Nさんと三人で話していた折に、短編というより見開き二頁の掌編といっていいこの作品の名前が出たのだ。
 私たち三人は同じ学年、同じ学部、同じサークルという以外にもう一つ、村上春樹作品好きとの共通点を持っていた。三人が三人とも、彼のほとんどの作品に目を通していた。
 となると、彼の本の話題になった時当然に、どの作品が一番好きかという問いが出される。
 私は長考の末に、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と答えた。M君も、いくつかの作品の名をあげた後、『ノルウェイの森』だと言った。
 別の機会に私と二人で話をした時、M君はNさんとのお互い人生初のまぐわいの際、同作の主人公ワタナベ君とヒロイン直子との同行為の動きを参考にした、と童貞の私にいらん報告をしてきたのだが、ここでは余談だ。
 そのNさんはといえば、一番好きなのは、「ランゲルハンス島の午後」だとほぼ即答してみせた。
 本作は、エッセイ集の書名にもなっていたので、その本が好きなのかと尋ねると、彼女は首を横に振り、「『ランゲルハンス島の午後』っていう一篇が特に好きなの」と答えを返して来た。
 「高校の時に初めて読んで、それから今まで何回再読してきたかわからないくらい」と。
 この時期は、読みたい本がいくらでもあったし、質より量を求めていたこともあって、よっぽど印象的な作品でないと頭に残っていなかった。
 エッセイ集『ランゲルハンス島の午後』は、私も持っていたし、当然読んだはずだけれど、短い文章の集まりで、かつ薄い本であったため勢いよく読み進め、早々に読破し、それだけで満足してしまっていたようだ。
 その日、家に帰った後改めて読み直してみると、中学生ならではの気持ちの転変、綺麗な川に架かる古い石の橋、そこから見える海の輝きなどが鮮やかに目に浮かぶようで、こんな文字数が少ないのに、これほど充実した文章が他にあるだろうか、いやない、と考えるほどに、私の中で思い入れのある作品となった。
 この時も人の意見に流されやすい私の癖が出てしまったのだけれど、それを差し引いても、本随筆の出来栄えが優れているのは間違いないだろう。著者はこの本のために「ランゲルハンス島の午後」を書き下ろし、出版社もこれを書名として刊行したのだから。
 
 本作を読むと、自身の十代半ばのことが思い出されてくる。
 学校が嫌で嫌で仕様がなく、サボってひと気のない大きな公園の木陰のベンチに腰を下ろした。頭上を覆う欅や山桜の葉の隙間から見えた透き通るような空の青さは、未だ私の胸の中で当時の色彩を保ち続けている。
 花は終わっていて、木々の葉の緑も濃かったから、季節は春の終わりから夏の始めだろうか。
 公園へ行く途中で買った瓶入りのオレンジジュースの爽やかな味わい、ベンチの横に置いた通学に使っている自転車のホイールに木漏れ日が当たった時の白い煌めき、授業をサボっていることに裏打ちされた限定付きの解放感。
 青春の塊のような一瞬が、確かにそこにあった。
 「ランゲルハンス島の午後」を読むたびに、それを鍵として私は当時の自分に帰っていける。
 Nさんが好きだと言ったから、私にとっても思い入れのあるものとなった本作は、いつの間にかとても大切な作品にまで格上げされていた。
 そして、ダッフルコートなどに修繕を加えるのと同じように、読み返す度に胸に蘇る思い出を、しつこいほどに磨き、吟味し、同時に堪能してきた。
 
 Nさんは、地方の厳しい家庭、厳しい女子高で過ごして来たため、学校をサボることなど考えられなかったという。
 風邪をひいて体調が悪い時ですら、家にいては父親に殴られるからといって登校したとも語っていた。とんでもない父親に見えるけれど、昭和前半世代の親では珍しくなかったと思う。
 生真面目な生活を送った反動だろうか。上京し、一人暮らしを始めたNさんは、頻繁に講義を休んだ。
 それで何をしていたのかというと、ひたすらに街を歩いていたらしい。朝から夕方にかけて、山手線を一周丸々歩いたこともあったという。
 大学をサボっていても、ちっとも楽しそうには見えなかった。気晴らしや解放感を求めてそうしているのでなく、何らかの義務でそうせざるを得ないからそうしているように感じられた。
 サボることについてさえ生真面目だったというか。
 彼女にとって、本作に出て来る少年は自らの憧れの投影であり、ランゲルハウス島は憧憬の地としてあったのかもしれない。
 
 大学を卒業して以来、私はNさんと会うことはなかった。
 M君とは時折連絡を取り合っており、Nさんとは卒業前に破局したこと、それでも近況報告はずっと交わしていて、彼女が二度結婚し、二度離婚したことなどを聞いていた。子供はいなかったという。
 このところ、互いの身過ぎ世過ぎで忙しく、M君とは一年半ほど連絡が途絶えていた。
 けれど、春まだきの三月初め、久しぶりに彼からメールが届いた。Nさんが死んだという。暮らしに必要なものがほとんどないアパートでの、自死に近い餓死だった。
 大学生の頃から精神的な脆さを感じさせる女性だったので、正直に言うと意外性はなかった。
 
 結局Nさんは、こうなることでしかランゲルハウス島の岸辺に立つことはできなかったのだろうか。
 
 こんな風に文章を終えるつもりでいた。二十代の頃だったらそうしていただろう。
 だが今は、死がそうそう綺麗にまとまるものではないと知ってしまっている。
 ただただ遠くの暗雲から地を伝って響いてくる雷鳴のように、鈍い寂しさがうねりのように胸を揺らすだけだ。
 
 今回この文を書くに当たって、かなり長い間本書を開いていなかったことに気付いた。
 意識して避けていたのではないけれど、しつこい性格の私にしては珍しく再読の間が開いてしまっていた。
 本文を読むと、やはり鮮やかに過去の自分の青春時代が思い返された。
 それは懐かしく、けれど哀しいことだった。
 
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