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人が、自己を生きていく姿を見た~哀れなるものたち~

 観終わった後に、「一緒に観る人を選ぶよね」と夫と言い合えるのは幸運なのだろう。帰り道も帰宅後も内容や俳優について話さずにはいられない。「いやあ若かったら見続けられなかったかも」「この年齢で映画を楽しめて良かった」と夫が言う。わかる。私も若かったらもっとしんどかったと思う。


 エマ・ストーンの演技には圧倒される。

 「ラ・ラ・ランド」で観た時に、「そこら辺にいる冴えない感じの人」の雰囲気を出すのが上手で、それでいてなんて魅力的なのかしらと思った。
 それ以外では「クルエラ」「アメイジング・スパイダーマン」くらいでしか私は観たことないのだけど、どれも全然違うエマ・ストーンを楽しめて驚かされてしまう。

 今回も前評判は聞いていた。エマ・ストーンがすごいよって。まあそりゃあそうなんでしょう。と想像していたけど、映画自体も圧巻だった。



※ストーリー自体は書いていませんが、ネタバレめっちゃあります。



 「フランケンシュタイン」を思い出す人が多いそうだ。フランケンシュタインのフォルムは知っていても、映画や意味など知らなくて調べてみてその一端を知る。
 確かにその要素がおおいにある。死者を復活させる部分は特に。

 狂気的な天才外科医ゴドウィン・バクスターが、自殺した女性を拾い上げ、お腹にいる胎児の脳を移植し、ベラ・バクスターとして育てる。

 設定としては、大人の身体を借りているからか彼女の脳の発達はめざましい。最初こそ赤ちゃんだし言葉も未熟だけど、成長が早い。その辺りは「アルジャーノンに花束を」を思い出させる。

 その過程で「男性たち」は教えたい。気に入った女性を自分の許容範囲内に入れておきたい。安全に閉じこめて自由を奪い、思い通りにしたい。
 男性たちは入れ替わり立ち替わり、教えておきながら、予想以上のものをベラが得て成長するとうろたえる。

 親としてもその辺りは考えさせられる。ただ親は、健全な関係であれば、子供が自分を超えてくるのってうれしいと知っているはず。

 ゴドウィンは、最初こそ外の世界を教えたくない、刺激を与えたくなかったにしても、けっきょく自由を与えた。外の世界を見た方が良いだろうと手放す姿勢は、ギリギリで親の思いを選んだように見えた。彼も親に実験される側として辛い思いを抱えていたのだ。

 そして子供が巣立った寂しさを埋めようとする。でもベラの代わりはいなくて、そこに人それぞれの個性がある。接してきた親としての、愛と身勝手さを感じる。

 ベラの成長ぶりを見ながら、終盤にいくにつれて、気が付く。

 彼女は母親の皮をかぶった別の個体だ。
 育った環境と、今いる環境が彼女を形作っている。孤独だった彼女は様々な人に囲まれ、自分の感性であらゆるものを受け止めている。母親とはちがう彼女自身ができあがっていく。だから母親とはちがう選択をし、考え方、知性を発達させていった。それはどんなに外側が似ていても、子供は親とはちがうのだと示しているように見えた。
 母親がいないからこそ女性としての先入観が植えつけられなくて、彼女自身になれたのかもしれないとさえ思える。

 それでいて好き嫌いなど気質的なものに関しては、母親にあったものが彼女の中にも息づいていた。


 シーンとしては、グロテスクな描写や性描写が多い。グロテスクな描写はどうしても見られなかったのだけど、性描写もあんまり多いとしんどいよなあ。
 本人にとっては、成長に伴った楽しいことが他になく、何も知らされない、教えてもらえない-という環境にしても、「幸せな気分になる」ことってそれだけかしらん。その立場に立ったことがないからわからないよね。急成長する脳と、大人の身体があるんだもの。
 でもしつこいくらい描写があるのよ。
 恋も愛も誰かを好きになる感情も知らないままにただその行為を楽しみ面白いと感じているベラ。性描写があんなに必要なのか私にはよくわからないけど、少なくとも彼女から受け身の意識や駆け引きや感情が伴うところは見られないのは伝わる。相手に対してまったく心がなく、ひたすら自分の楽しみのためだけ。

 そしてそこから頭や心を使う方が楽しいと気づいていく様子も描かれていく。
 あんなにまで、ただ楽しんでいたからこそ、気づいてからの彼女の変化も感じられるのかもしれない。

 そして娼婦となったベラは、男性を選ぶ側になれないのかと問う。
 ああいう場が男性に必要とされているなら、こんなにも楽しめる女性がいるのに何故女性は受け身なのかとベラは思う。女性には蔑称があるのに、対義語は? 楽しむ男性は?
 そこに世の中の仕組みやあきらめ、割り切りを知る。観ている側にもこれが社会ではないかと、つきつけてくる。
 大人になってこんな社会の仕組みをいつの間にか受け入れているからこそ考えたい。せめて下の世代には自由に考えるバトンを渡したい。

 その果てに彼女は、心が無になった感覚を味わう。
 楽しみつくしたある日、虚無感におそわれてそんなのが問題じゃないと知る。きっと幸せってそういうことじゃないのだと。なんならその行為に男性も必要じゃないと気づく。

 自分の行為も身体もすべてを受け入れた上で、お互いの意見を伝え合い、ベラが自分で婚約者にプロポーズする姿は、人としての尊厳を感じる。池のほとりで交わす二人の会話に胸を打たれた。ベラは感情の深さを知り、愛情を知り、自分の中に意志を感じ、人生や共に歩む人を自分で選んだ。

 最後までグロテスクなシーン満載だったけど、あの庭にいる人たちはみんな哀れにも見えてくる。それぞれの持つ「哀れ」の意味はちがっても。みんな。
 もしかしたら観ている私たちも。


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