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理解「してくれる」でも「してもらう」でもなく「したくなる」を求めて

「伝える」は難しいものだ。
 何かをおすすめしたい時、今日見聞きした面白い出来事を話す時、困っている誰かに親身になりたい時。あるいは誰かの間違いを正したり、説得したりする時だって、「伝える」に迷わない瞬間などないだろう。

 私達はいつでも、この深遠な行為につまづく。そして恐れおののく。どうやったらそれを上手くこなせるのだろうか、と。どうやったらそれを成功させられるのだろうか、と。
 あなたの不安は尽きない。

 伝えることを成功させる鍵は、その伝えるべき人達にとって、それが「したくなる」かどうかだ。提示された様々な形の、そして内容のメッセージに対して、はたしてそれを理解してもいい気になっているのか? それに「うん」と言う人が多ければ多いほど、その伝えることは成功していると言えるだろう。
 だが一方で、伝えられることに拒否反応が起きることがある。その原因は何かに不備があるからだ。その何かとは、「伝えられる内容」や「伝え方」や「伝える主体」のどれかに、「伝えられたくなる要素」がないことを意味する。
 その伝えられる人が、今欲しくない内容。今してほしくない態度。今見たくない人やもの。そういった不備があると、伝えることは成功しない。もしかしたら運良く、失敗はしないかもしれないが、その結果は凡庸なものとなる。イマイチ伝わりきらなかったなぁ、というのが、それだ。
 そうではなく、ちゃんと伝えることを成功させたいのなら、伝える側が気をつけなければならない。
「その人は今、伝えられたくなっているか?」このことを。そしてそうでないのなら、そう思えるように準備をしなければならない。もしその時間も労力もかけられないというのなら、その伝えることの結果は粗末になることを覚悟したほうが良いだろう。

 その程度の伝わり方でOKというのなら問題ない。でも、完璧とかそれに近い伝わり方を期待しているのに、準備を怠るというのはあってはならない。そして準備の方向も正しくなければならない。
 内容に不備があるのに、態度をいくら改善しようとしても意味がない。伝える人が好かれていないまま、内容をあれこれ工夫しても拒否されるだけだ。そういった、正しい問題の解明と、それに応じた方法をもって、「伝えること」は、「伝えられたいこと」にならねばならない。
 そうすれば、あなたの伝えるは、そう難しいことにはならない。無論、そのための準備が大変だとか、難しいということはあるかもしれないけれど、それは必要経費。伝えることそのものは、準備が裏切ることのない易しい行為である

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