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「弱きを助け」=「強きを挫く」?

 弱いもの、被害者、不当な不利益、不自由な人々。これらは、助けたり解消しなければならない対象だ。それも無限に。その問題がなくなるまで。それが1つの正義の形であり、平等の執行である。私達の生活をより良いものにしていくために、私達は不正や不平等や非倫理を許すわけにはいかない。
 そのことは言うまでもなく正しいとされている感覚だ。私達の誰もが、それを信じられる。信じていいと思える。

 しかし、その感覚は行き過ぎることがある。

 つまり、弱きを助けることに気持ちを入れるあまりに、いつの間にか私達は、その矛先を「強いもの」に向ける。これは文字通りの強さにということではなく、助けねばならない弱きものの原因となっていたり、対局にいたり、対立していたりするもののことである。これらは、確かに弱きものに手を差し伸べるために挫かねばならない存在であるものの、しかし、それは直接的に弱きものを助けることとは異なる行為である。
 要するに、弱きものを助けることと、強きものを挫くことは本質的に違う。にもかかわらず、私達はまるでそれらが一緒のことであるかのように、問題解消の1つの方法として、何かを破壊し、抹消し、拒否し、あまつさえこの世からなくなればいいのにと、その存在を否定してしまう。

 何かを守ったり助けたりすることは、確かに当たり前に尊いことである。しかし、仮にそれを目的としていたとしても、何かを攻撃したり妨害したりということは、必ずしも良いこととは言えない。
 端的に、「正義のためならば何をしても良い」というのは間違いなのに、そしてそのことは分かっているはずなのに。私達はいつも、弱きを助けることと、強きを挫くことを混同する。あげく、強きものを徹底的に潰し、この世から消し去ることで、弱きものを助けたのだと満足してしまうことすらある。
 したり顔で。それは直接的には弱きを助けたことにはならないのに。だからそれは、誤った正義感なのだ。暴走とも言える。

 そしてなお悪いことに、この世の一部の人々がそんな誤った正義感に浸っているのではなく、私達は誰もが、この正義感を肯定してしまう。弱気を助けるためには、それと対立している強いもの──悪や、間違いや、それに関連する様々なこと──を徹底的に潰すことはいいことなのだと。倫理的なのだと。自分たちこそが正義なのだと。何をしても許されるのだと。
 弱きを助け強きを挫くということへの感覚が、私達の残忍な性質を、いくらでも増長させる。

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