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むしろ私達は、よく責任転嫁を調整して生きている。

 できることなら何もかも他人のせいにしたいと私達が思えるのなら、物事はどれだけ簡単だったか。あらゆることをひたすら誰かに任せ、責任回避につとめることが世界のスタンダードならば、むしろそんなにも、スッキリした物事はなかったのだ。

 なにより面倒なのは、そうやって他人に全てを委ねることは私達にはかなり難しい、という事実である。誰も、自分の全てを委ねられるほど、大胆でもないし力もないし、何より、無知ではないからである。
 簡単な考えとして、つまりこれは、責任とは物事の主体であるということだ。あらゆる行動、発言、結果、活動、資産。そういったものが確かに自分に存在するということの1つの証が、責任なのである。反対にそれがないのなら、その人は何も持っていないことになってしまう。全てが、借り物の人生。

 そういう虚しさはいらない。責任を転嫁したいと私達が願うのは、そういうことではないのだ。確かに責任とは面倒なものだが、それを捨て去ることは、つまりどういうことかを私達はきちんとわかっている。だから、何もかも自分から手放してしまうということにならないように、私達は賢く責任転嫁をするのである。
 ただ、中には少し、そのバランスが崩れてしまう人がいる。そういう人は、自分にとって大切なものの「責任」を他者に委ねてしまって、後悔することになる。

 責任転嫁は、ただの良くない行いというわけでも、やってはいけないことでも、やらないようにしなくてはならないことでもない。それはいつも、何かしら行われていて、私達人間にとってはスタンダードな行為だ。そしてそれは、無意識にでも良く調整されて行われているのが普通で、なぜなら責任は適度に持っていないと、自分に所属するものを手放してしまうのだと、私達が理解しているからである。
 誰も、全てを委ねようとは思わない。だから責任転嫁は行き過ぎることはないし、それは危うく見えて、実はすごく繊細に調整された、人間の日常行為なのである。
 できることなら私達は、自分にとっての適度な責任を持ちながら、この世を生きていきたいと思うはずだ。

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