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物語は「盛り上がれば良い」のではない

「こんな話じゃ盛り上がらないよ」「この作品は盛り上がりに欠けるね」「もっと盛り上がるところあれば、いい物語になるのに」
 物語を作る現場において、まことしやかに話される「盛り上がり」という存在。それは言葉の通り、その物語の中で最も輝かしく印象深いシーンであり、話の流れであり、登場人部たちの活躍である。
 さるかに合戦なら、臼がドスンと猿に飛び降りたシーン。浦島太郎なら乙姫様から玉手箱をもらうシーン。ヘンゼルとグレーテルなら、狡猾な魔女から逃げおおせた兄妹が無事に自宅に帰れたシーン。

 盛り上がりだ。物語を見る者を「おおっ」と思わせる瞬間。それまではハラハラと「どうなるのだろう?」と思わせ夢中にさせたり、「こうならないとな」とうんうん頷かせたり。
 そういう結果としての盛り上がり。物語の大一番。それがなければ物語は意味がない。なぜなら記憶に残らないからだ。物語を見る者は、それだけに限れば自分で何かをしているわけではない。猿に復讐するために策を練るわけでもないし、亀を助けてもいない、魔女に誘われてお菓子の家に行ったわけでもない。
 全て、そのつもりになっているだけだ。最大限、物語に「感情移入」したとしても。でも事実はやっていない。疑似体験である。だから物語を見るというのは、往々にして退屈になってしまうのである。それはマンネリ化し、意味を見出すのが難しいものなのだ。

 その意味を作り出すのが盛り上がりである。そして、物語の本当とは、ただ盛り上がれば良いわけではない。
 何度も何度も、臼が猿の上に落ち続けるシーンを誰も、見たいはずがない。物語のはじめから終わりまで、浦島太郎が魚たちの舞い踊りを鑑賞するだけなど、明らかに退屈だ。ヘンゼルとグレーテルがちょっと森まで行って、すぐに帰って来てしまうのでは、絶対になんの意味もない。

 これらは、「盛り上がりのための過程」がすっぽりと抜け落ちてしまっていることに原因がある。盛り上がること単体では物語にはなり得ない。それは一要素でしかなく、他の要素と組み合わさることで初めて物語となるのだ(組み合わせの方法によっても物語の質は変わるが、詳しくは割愛する)。
 そのため、物語とは確かに盛り上がりが重要視されるが、「盛り上がること」が物語の全てではない。それがなければ意味がないが、だからこそ、「そうでない部分」がいるのである。
 蟹のお母さんが死んでしまうシーンや、亀がいじめられているシーン、そして魔女によって兄がどんどん太らされてしまうシーン。
 そのような物語にとっての意味以外の部分(正確には、テーマ的には意味がある場合もある。ここで言う意義とは、物語の構造的な意義である)を、盛り上がりの引き立て役として上手く扱えている物語こそ、真に退屈でなく、記憶に残り、見る価値のあるものであると言える。

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