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当たり前がなぜ当たり前となったのかを考える

 この世にあって当然のものはたくさんある。ルールとか常識とか慣習とか仕組みとか、自分が生まれるよりもはるか昔から存在するものたちは、なぜあるのかわからないくらい深く、この世界に根付いている。
 だからこそ私達は、それを変えていくことを絶対に良いことだと思いがちだ。つまり、当たり前に行われることには大抵は根拠がないのだから変えねばならないと考える。
 それは自然な発想である。特に昨今は改革がブームであり、なにかにつけ様々なものを見直して新しくすることが価値あることとされている。

 だが、当たり前に行われることは、実際のところ最初から当たり前だったわけではない。根拠のない慣習やルール、仕組み、しきたりは社会に染み付いている。ならばそれは、そうなるだけの理由があって然るべきだからそうなったのだ。
 即ち当たり前にこの世にあるものはそもそも、最初はそうでなかったのに、社会の要請によりそうなったわけで、需要があって今の地位を確立したのだということである。

 そのことを考慮に入れないと、因習の改革は失敗する。というよりも正しい改革とは言えない。変えねばならないものはいくらでもこの世にあるが、それは元来、あって良いものだったのである。
 それがどうして今にそぐわなくなったのかを知らなければ、当たり前を当たり前でなくすることは本末転倒になる。つまり私達は、「当たり前を改革する」ことを当たり前に思ってはならない。その狭量な押しつけが、また新たな当たり前を生み、時代を繰り返すことになるからだ。

 知ることは恐らく、1つの絶対的な正義である。
 当たり前を知らねばならない。ルールとか常識とか慣習とか仕組みとか、自分が生まれるよりもはるか昔から存在するものたちは、なぜあるのか。なぜ当たり前としてこれたのか。
 それを知りたいという好奇心と、変えようという気概なくして当たり前は、当たり前には変わってはくれない。

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