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『「介護時間」の光景』(178)「会話」。10.21.

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景 

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護者の理解の一助になれば、と考えています。

 今回も古い話で申し訳ないのですが、前半は、23年前の「2000年10月21日」のことです。
 終盤に、今日「2023年9月11日」のことを書いています。

(※この「介護時間」の光景では、特に前半の昔の部分は、その時のメモを、多少の修正や加筆はありますが、ほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2000年の頃

 個人的なことですが、私にとっては、1999年から介護が始まりました。母の精神的な症状が突然、発症しました。最初は2月。しばらく入院したら、よくわからないうちに回復しました。そして、次は7月に再び発症しました。
 
 いつものかかりつけの内科医は、血液検査もせず、認知症と診断しました。その後、精神科の病院へ転院しましたが、そこで、血中アンモニア濃度が異常に高くなっていることが分かりました。

 精神科の病院で、その治療のために、内服薬を飲み始めたら、二週間ほどで、嘘のように通常のコミュニケーションがとれるようになり、退院しました。それから約1年、実家で母親をみていましたが、2000年の夏頃、母の症状がまた重くなり、再び、母のかかりつけの病院に入院しました。去年の見落としに関しての謝罪も何もないのですが、母親自身が、やたらと信頼していて、他の病院に行く決断ができませんでした。

 ただ、病院からは、昼も夜もなく電話がかかってきて、動いてしまう母の症状への対応に、過大なプレッシャーなどをかけられました。結局、私が、母の病室へずっといることになりました。病院のスタッフからは、とにかく迷惑をかけないでください、といったことしか言われませんでした。

 ここまでの1年間の疲れもあったかと思いますが、ほとんど眠れない日々が2週間続く頃、私自身が、心房細動の発作に襲われ、「過労死一歩手前」と言われました。その時に、病院のスタッフからは、「大丈夫ですか」の一言もありませんでした。私は、その日は付き添いができなくなりましたが、「今日、みてくれる人はいませんか?」ばかりを、繰り返し看護師からは言われました。妻は、夫(私ですが)の病気で心配な上に、そのことで責められるように言われたと、涙を流していました。

 それでも、とにかく24時間体制で付き添いをつけることを条件(その当時は、表立ってではないのですが、家政婦の方に、その仕事を依頼する方法がありました)に、やっと入院の継続を許可されているような状況の中で、早く出ていってほしい、というプレッシャーをかけられていました。

 精神的な症状の高齢者の長期入院が可能な病院を探し、母の病室にいながら、自分の心臓に不安を抱えながら、いくつか病院をまわり、やっと母に合うと思える病院への転院が決まりました。
 それで転院したのが8月30日でした。私が車の運転をしてやっと移動できました。
 それから、2週間も経っていない頃で、やたらと不安で毎日のように病院へ通っていました。

2000年10月21日

『昨日は、母の習い事に関して、病気のため、ずっと参加できないのだから、これまで会費は払わなくていいことになっていたのに、その会の人から連絡があって、そこの「先生」と言われる人が、やっぱり会費を払ってください、ということになり、なんだか、嫌になった。

 この日、母のいる病院の最寄りの駅からのバスは、なんだか混んでいる。最近、駅のそばに新しくできたスーパーの開店セールがあって、そのために道路も混んでいて、渋滞し、さらには駅からバスで30分くらいかかる終点は病院の最寄りのバス停でもあるし、大学もあって、そこの文化祭があってコンサートもあるので、車内もいつもよりも人が多いようだ。

 バスは1時間くらいかかった。

 午後4時30分頃、病院に着いた。

 母は、けっこう落ち着いていて、まだ遅いけれど、母の指も少し動くようになってきた。今日も、同じように肩ももんで、時間も過ぎて、食事になった。

 食事が終わって、今日から野球の日本シリーズが始まっていて、母と病室でテレビを一緒に見ていたら、なんだか、落ち着かないので、聞いたら、トイレに行きたいというし、なんだか、うまく動かないようなので、一緒にトイレに連れて行って、いろいろと介助して、戻ってきた。

 その後も、すごく熱心に母は野球を見ていた。

 午後7時30分頃に横になり、でも、ムズムズする、と言い始め、紙おむつがきつい、とも言い出す。

 めんどくさいと思ってしまったのは、母が自分で望んで、はいていたからで、自分で希望したことを伝えたら、少し態度が変わる。

 昨日寒いから、下着もはいて、さらにオムツをつけてもらったそうだ。その時に、病院のスタッフの方に、しっかりしてきた、と言われたそうだ。

 何か、こうした会話をしていたら、ちょっと嫌になる。

 それから、病院を出て、バス停に来たら、近くの大学の文化祭のコンサートが終わったみたいで、いつもだと考えられないくらいの大勢の人がいる。

 何だか、嫌になる』。

会話

 駅から病院までのバス。すごく混んでいる。珍しい。終点の大学で、あるバンドのコンサートをやるらしい。何年か前「進め。電波少年」の企画で、売れたバンド。

 狭いバスの中で2人の若い男の会話が嫌でも聞こえてくる。一人の方がよくしゃべる。英検の事。面接の事。不自然なほどスムーズで知らない事はないかのような語り方。聞いていて、私は勝手に「世渡り君」と名付けていた。そして、もう一人はあいづちをうちつつ、なんとなく少し悪そうに見せたいような話し方をしている。こっちは「イキリ君」と名づけた。

 声だけが、ほとんどすき間なく聞こえてくる。自分より後ろだから、顔は見えない。終点に着く前に、振り返って顔を見た。「世渡り君」は、もう官僚みたいな顔をしていた。「イキリ君」は印象が薄かった。

 今の自分の気持ちの暗さの反映なのかもしれないけれど、二人の未来がハッキリと灰色に見えた。ホントに一方的な話だけど、でも人って他人の事を絶え間なく値踏みしているんだ、と自分の事で改めて知った。自分自身も含めて、世の中で生きているというのは、そういう評価の中で毎日暮らしているんだ…変な感想。

                   (2000年10月21日)


 それから、母の病院に通って、自宅に帰ってからは、義母(妻の母親)の介護をする日々が続いた。自分の心臓の病気のこともあり、仕事はやめたまま、再開することはできなかった。

 そんな介護に専念する生活が続き、感覚的には永遠に続くようにさえ思える時もあったが、2007年に母は病院で亡くなった。そのあとも、義母の介護を妻と一緒に続け、その合間に勉強をして、2010年には大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得した。

 介護を続けながら、「介護者相談の仕事」も始めることができたが、2018年の年末に、義母は103歳で亡くなり、介護生活が終わった。翌年には、公認心理師の資格も取得した。その後、体調を整えるのに、思った以上の時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。

2023年10月21日

 土曜日は、出かける日になっている。

 コロナ禍が始まった頃、介護中の昼夜逆転のリズムが修正されてきたのだが、妻に持病もあり重症化リスクが高いため、なにしろ、感染を避けることが大事になった。

 長く続けさせてもらっている家族介護者への個別の心理的支援の仕事は、幸いにも時間と電車の進行方向のタイミングで、車両内が人でいっぱいになることはなかった。だから、感染リスクを考えても、そのまま仕事として続けることができた。

 それからも、満員電車に乗ることを極力避ける生活を続けるために、出かける機会が限られてしまい、自分の年齢的なこともあるのだけど、そのために、仕事が、より限定されてしまった。

 土曜日は、満員電車を避けられるため、数少ない朝方から出かけられる日だった。

 そうした行動が、さまざまな方々に迷惑をかけることのないようにしているものの、自分の経済状況はかなり厳しいままで、これからも、どうすればいいのか、という模索は続きそうだ。

 こうした制限の中で暮らしている人たちは、思ったより多くいると思う。

ワクチン

 今日も仕事を終えてから、駅のそばの公衆電話で、家に電話をする。

 介護生活に入ってから、極力、支出を抑え続け、なんとか生活していた。20世紀末に介護を始めた頃は、今ほど携帯電話も普及していなかったため、節約するために、とにかく携帯電話も持たないようにしていた。

 それから、20年近く介護は続いたものの、支出を抑え、そのためにスマホが登場しても購入することもなく、年月が過ぎた。

 今では、収入の低さがスマホ不所持の理由にならないのはわかっているものの、収入を増やせるメドもなく、さらには最近はあらゆるものが値上げしている中では、悲しいけれど、怖くて、まだスマホを使うことはできない状況だった。

 テレホンカードを使って、家に電話をしたら、妻は元気だった。
 今日は、インフルエンザのワクチン接種の予定だったから、少しホッとした。

 先週の、コロナワクチンの副反応は、それほどでもなかったようだけど、こんなに立て続けにワクチンを射つことは、そんなにないだろうから、ちょっと心配だった。だけど、ちょっとだるいけど、という前置きはあったものの、大丈夫、という言葉を聞いた。

 よかった。

 それで、帰りに図書館に寄ることにした。

図書館

 電車を降りたら、もう夕暮れだった。

 最近は、午後5時頃には日没になる。いつの間にか、日が暮れるのが早くなった。

 図書館の最寄りの駅のそばに、雑貨屋ができて、そのあと、占いの店になった場所は、今は「テナント募集」の文字がある。

 坂道を登っていたら、後ろに小さな男の子と、おそらくは父親が手をつないで登っていて、「よくがんばったバッチ」という言葉を子どもが繰り返すのが聞こえてくる。

 あったら、ちょっと欲しい。

 図書館に寄って、本を返却して、予約して取り寄せてもらった本を借りる。予定よりも多く、今日届いたばかりの本があって、冊数オーバーで借りられないので、また1週間ほどあとに来たときに、借りることができるようだ。

 ありがたい。

 こうして図書館に通う習慣ができたのは、40歳を超えてからだった。その頃は仕事をやめて、介護に専念していて、何も先が見えず、ただ暗い気持ちで暮らしていたので、少しでもまともな人になりたいと急に思って、何をしたらいいのか分からず、突然、本を読み始めた。

 母の入院する病院に通っている電車の時間に読んだら、思った以上に読む習慣がついた。

 介護は終わったのだけど、本は読み続けることができている。

 それは臨床心理士・公認心理師の仕事を続けるためには、とにかく、いろいろなことを知っておくことが必要なのは、時間が経つほど痛感するからだと思う。

 だから、これからも図書館には通い続けると思う。




(他にも、いろいろと介護について書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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