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『「介護時間」の光景』(207)「光」。5.21。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。


(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年5月21日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。


 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 
 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年5月21日」のことです。終盤に、今日「2024年5月21日」のことを書いています。


(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、仕事をやめ、介護に専念する生活になりました。2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 母の病院に毎日のように通い、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。


2001年5月21日

『なぜか、大学のころの夢を見た。

 ただ、現実にはなかった体育会合同の合宿で、同じサッカー部の人間も一緒に参加しているのだけど、他の部の人間もたくさんいて自転車で坂道を登る競争をしている。

 めいっぱいペダルを踏んでも、全然かなわない人間がゴロゴロいる。

 ああいう無力感。なんで出来ないんだろう、という気持ちがありありと蘇る。

 そのあと、急に高校時代の友人が殺された事件が起こる。

 それがどうしてなのか、誰が殺したのか。それを探ろうとしたら、誰かが現れ襲われ、だからなんとか逃れようと、蹴っても蹴っても全然かなわない。

 また無力感に襲われて、目が覚める。

 午後から病院に向かう。

 電車に乗っていて、去年、今の病院にうつる前、違う病院で母親も自分もひどいめにあって、そこで自分が心臓の発作を起こして、死にそうになったのに、さらに看護師にひどい言葉を浴びせられたことを急に思い出すと、怒りが止まらなくなる。

 午後4時30分頃、病院に着く。

 母はイスに座っている。割と普通にしている。

 お風呂に入ったかを尋ねると、「毎日入っているのよ」と答えが返ってくるが、週に2度か3度くらいのはずだった。

 急に、母の妹さんの話になった。

「〇〇ちゃんのところ、喫茶店どうしたのかしら」
「もう、やめたよ」
「あ、その方がいいのよ」。

 そのことは入院するずいぶん前のことだったけれど、それは忘れているようだった。

 それからは、結構時間は平和にすぎた。

 このままずっと母に変化がなければいいんだど----とも思う。

 ただ、このまま入院を続けるには、お金が続かない。

 4月は、紙おむつは7回分でおさまっていたから、前よりも少なくなった。

 カーネーションをいけている花びんの水を毎日かえていると母は言うのだけど、時々、私がそっとかえている。いつの間にか一本減っているから、落としたか枯れたかしたのかもしれない。

 買って行った母が好きだった画家の雑誌の途中にしおりがわりにティッシュがはさまれていた。その話題になると「毎朝見てる」と笑っていた。

 午後7時頃、病院を出る。

 いつものように病棟の入り口のカギのかかるドアの前まで送ってくれた。

 考えたら、最近は急に歩けなくなったり、といったことも少なくなって、ありがたかった』


 電車の窓から風景が流れるのを立って見ていた。

 でも、各停だし、在来線だし、すぐ近くの電柱以外、そんなに飛ぶよう風景が去っていくわけでもない。

 川が見える。
 水の流れもはっきりと見える。
 広くない川に何本も太い鉄のパイプが橋のようにかけられている。じっと見ていると、けっこう太いと思う。

 電車の中だから移動して、見える位置が変わったせいか、川の水に太陽の光が乱反射して、その光がパイプに映ってゆれている。編み目模様になっていた。パイプの太さのせいか、その模様が全部を覆うわけではなく、だけど、そのバランスがぴったりだと、思わせた。

 ほんの何秒かしかなかったはずなのに、そんな感想にまで、あせる事もなく、たどり着いた。考える速度だって、早い方ではないのに。

                        (2001年5月21日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、ずっと在宅介護をしていた義母が、急に意識を失い、数日後に103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2024年5月21日

 天気がいいので、2回洗濯をした。

 庭の柿の葉は、また茂っていて、緑が濃くなっているようだった。

 妻が庭にしゃがんでスケッチをしていた。

 なんだか少し笑っていて、聞いたら、それは花のことだった。

 しぼり咲きポーチェラカという名前だと聞いた。

 このところ、毎日一輪ずつ咲いてくれている。

 そんなことを話しながら笑っていて、こちらもうれしくなった。

事故

 最近、読んだのはもう70年ほど前の出来事になる「森永ヒ素ミルク事件」を題材にしたものだった。それは、こうした事件を、どのようにしたら起こるリスクを減らせるのか、というテーマで書かれていて、出版されたのは2021年のことだ。

 こうしたニュースは情報としては知っていたのだけれど、どこかで、どうしてヒ素のような毒物が食品に混入するのだろう?と基本的な疑問があったものの、この著者の精密な調査や分析によって、こうした様々な出来事(見落とし、もしくは、間違った妥協など)によって起こり得るのは、少し理解できたように思った。

 ヒ素粉乳の出現を、予め完全に予測することは誰にもできない。しかし、ヒ素粉乳なるプロダクトは、通常の粉乳の異常形態であり、これが消費に回ったということは、本来、機能すべき複数のチェックポイント(=リスク評価ポイント)がすべて機能不全に終わったことを意味する。重大事故が起きる際の、いわゆるスイスチーズ現象である。

(『科学技術のリスク評価:森永ヒ素粉乳中毒事件を中心に』より)

 この書籍を読むだけでも、それぞれの人にとっては、おそらくはちょっとしたことの積み重ねで、こうした大事件が起こっているのがわかると、より怖さが増すのは、自分自身でも知らないうちに関与する可能性を感じたからだった。

 もともと追跡調査が嫌いな日本の医学研究陣がこの事件を忘れたことに不思議はないが、世界的にも稀な臨床現場を目の当たりにした西日本の医学界の中から、誰一人、この事件の追跡調査に取り組む者が現れなかったのは奇異であり、この事例に限っていえば、追跡調査自体がタブー視されていたと考えることに十分な妥当性があるという。そして、当時の医学界を支配していた、追跡調査をタブー視するという風潮は、乳牛会社こそが唯一の一大スポンサーである小児科学や公衆衛生学の経済事情と無縁ではない、と指摘している。被害者の後遺症の実態に真っ先に気付くべき医師たちが森永に買収されてしまったために、後遺症の医学的データが蓄積されなかったというのだ。
 青山の指摘は、医師にヒ素ミルクの飲用者であったことを告げると、たちどころに診察を断られたり、連単な扱いを受けたという、被害者らの一般的な体験談と付合する。ある重症児の母は、医師の前にひざまずき、必至の形相で助けを求めたところ、若い医師からこうささやかれた。「奥さん、医学界では森永ミルク中毒のことはタブーになっているんですよ。私共がこの事にかかわると医者としての生命が危ないんですよ」。  
            (※文中の青山とは、公衆衛生学者 青山英康)

 さらには、医学に関わる人たちが、このような対応をしていた、という事実は、もっと怖くも感じる。


 ただ、こういった外部の環境(医学界の状況など)と本当に無縁でいられるか。というのは、比べるのも傲慢もしれないけれど、困窮している状態の人に関わることが多い心理職にとっても、他人事ではないと思った。




(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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