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傾聴ができないと、チームも自分も成長しない

お客様との対話や会議などの場を振返っていて、ふと、話していて議論が深まる人とそうでない人がいるなと思いました。やはり、傾聴ができているかどうかが大きいように思います。でも、傾聴はみんな意識はしていますよね。もうちょっと深掘りして考えてみました。

まず、議論が深まる人は、結論を急ごうとしません。対話のキャッチボールによって、自分も含めた参加者の考えが深まったり、気づきを得たりすることを楽しんでいるように思います。

こういう人は、傾聴の姿勢も素晴らしいです。話していて心地が良いし、考えが深まっていく実感があります。「この人と話していると、学びが得られるな」と感じます。

ちなみに、ここでの「学び」は、知識を得ることではありません。自分の考え方や物の見かたがアップデートされることです。相手との対話を通じて、自分の中でも対話が起こり、持っていた知識や情報にいつもと違う角度で光があたり、深まっていく、そんな感覚を私は持ちます。「ああ、そういうことか」という気づきを得られることもあります。

話を聴こうとしない人との対話では、学びを得られる気がしません。
こちらの知らない情報を教えてくれたとしても、それだけだと「ああ、そういうことか」とはなりません。それに、たとえば、うんちくを聴いているだけの状況は、つらい時がありますね。うんちくを一方的に話している相手に質問を返しても「いやいや、そうじゃなくて…」のように返されます。そうなると、ますますつらい時間になります。

なぜ、つらいのかといえば、こちらが思うように話せない状況だからです。一歩引いてみると、どちらも自分の話をしたい、つまりは、お互い様、というところではあります。…だから、「我慢して聴いている」のようなこともありますよね。

…ということは、傾聴ができないと、自分の話を我慢して聞かれる可能性が高いわけです。傾聴の様で傾聴でないことをさせてしまう。結果として、自分の視点だけで気持ちよく話し続けることになります。…となると、自分の考え方が変化したり、気づきを得たりすることが少なくなる。これが積み重なると、「学ぶ」=「知識をどれだけ多く得ているか」という価値観が形成されるようにも思います。つまり、対話によって自分の考えや価値観が変わっていくということ自体が、そもそもよく分からないのかもしれません。

「知識をたくさん得て、それを当てはめて、問題を解決する」
こう書くと、一見、問題ないように思われます。でも、ここには「学び」がありません。コンピュータのメタファーでいうと、たくさんのアプリはあるけれど、OSがアップデートされていない、そんな状態です。もっとも、コンピュータの場合は、OSもソフトウェアなので、情報を更新すればアップデートされます。しかし、人間の場合そうはいきません。OSである考え方や価値観、物の見かたは、自分が何を大切にしていて、それは、他の人とどう違うのかに気づかないと変えようという動機が起こりません。

自分自身を深く知りたいとき、有難いのが他者の存在です。私たちは、一人ひとり顔が違います。ごく当たり前に、自分と相手は違う存在だと認識しています。ところが、考え方や価値観については、違いがあって当然だとは受け取っていません。顔と違って見えないし、触れることのできないものだから、みんな同じだと決めつけてしまうのです。

「自分は誰かにとって、ただ存在するだけで有難い」のです。そして、それは相手も同じです。にもかかわらず、一方的にうんちくをいって、我慢させてしまう。良かれと思って伝えようとしていることが、時に自分を有難くない存在にしてしまう…。多くのリーダーがこのパラドックスに苦しんでいるように思います。

「傾聴は大事だ」という本質的な意味合いをいまいちど、考えたいところです。

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