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何「を」選ぶか、ではなく、何「で」選ぶか

こうした質問を、よく耳にします

彼氏が〜なんだけど
別れたほうがいいかな?別れないほうがいいかな?

とか

はたまた仕事において
日常の瑣末な選択において

どっちを選んだらいいかな?

と、よく聞きます

多くの場合、その人の頭の中には天秤があり、
片方の皿に、Aを選んだ場合のメリットデメリットが、
もう片方の皿に、Aを選ばなかった場合のメリットデメリットが乗っていたりします

その天秤はふらふらと動きを止めなくて、
だからとっても困っている、
決定的な重みを一方に乗っけて決断させてくれと、
求められてる気がします。


でもそれ、そもそも決め方が違う。

そのままの考え方ではいつまで経っても結論は出ず、
最終的にタイムリミットに追われ、
外的要因に流されて決定してしまったり、
もしくは一時的な感情に流され、あぁ、やっぱりするんじゃなかったと後悔したり。

ではどうすればいいのか、
もっと後悔しない選択ができるのか、

何「を」選ぶかということに囚われず

何「で」選ぶのかということを大切にする


行動全ての、目的に立ち返り、
選択をすることがとても大切だと思っています

このことは古くから伝わる考え方ですし
当たり前のように実行されてる方は
「んなこと知ってるわい!」
って思われたかな、と思います

ただ、もう少し話を進めると

人の目的というものは共通している

という話があります。

常にそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあることのないようなもの」は、これを無条件的に究極的であるという。しかるに、かかる性質を最も多分に持つと考えられるのは幸福である。なぜなら、われわれが幸福を望むのは常に幸福それ自身のゆえであって決してそれ以外のもののゆえではなく、しかるに、名誉とか、快楽とか、知その他いろいろのアレテーをわれわれが選ぶのは、これらのもの自身のゆえでもあるが、…幸福のために、すなわち、それによって幸福でありうるだろうと考えて選ぶこともあるのだからである。引用:「ニコマコス倫理学」アリストテレス、渡辺邦夫訳

すべての人には「幸せ」という目的があり、
他のものはすべて手段である

言われてみればその通りなんですが、
このことを私たちはどれくらい意識できているんだろうと、
考えられているんだろうと思います。

生活に追われ、
目の前のことがこの上なく重大なことに見えて、
焦るように選択をしているのではないかと思うのです。

例えば、
昨今の就職活動の風潮は顕著であるように思います。
皆焦るように就活を始め、
受かった会社だからという理由で、
周りは就職活動終わってるし…という理由で、
焦るように決断をし、
正当化するように情報で固めて、
入社を決める。

決して批判しているわけではなくって
当然のことですが、そうして入った会社で
活躍してる方も、後悔していない方もいると思います。

ただ私たち自身の幸福を、
「結果オーライ」にするのはリスクが高いぞとも思うのです。

何かを選択しなくちゃいけないとき、
私の胸の内にどちらを選んだら
私は幸福なんだろうかと問いかける。

幸福という定義ではあんまりにふんわりしているので、何か自分なりの幸福の解釈をするべきですね。

ここからはいろんな哲学者が話してることだったりしますが、
例えばアリストテレスは
「有徳な行為者であること」
功利主義は
「苦痛−快楽の最大化」
とか

幸福の定義はいろいろとあります。

また幸福は正義と不可分なところがありますので、

胸の内の幸福と正義の物差しに聞くってイメージでもいいかもしれません。

〇〇で選ぶ!と自分の物差しが決まってない方は
倫理学を学ばれることをとってもオススメします。

わたしもいろんな幸福の定義をちょっとずつ
紹介できたらと思っています。

何かみなさんの思考に影響を与えられてたら嬉しいです。

最後まで読んでくださりありがとうございました!


#幸福 #コラム #幸せ #倫理 #選択 #正義 #哲学