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わたしのはなし:耳鼻科のヤゴさん


夜の坂道を下り、見慣れた街を横目に見ながら私たちは疾走する。
父の自転車の後ろに乗って鵜の木駅にある「矢後耳鼻咽喉科」通称“ヤゴさん”まで。

わたしが4〜5歳くらいの頃、隣町の耳鼻科(冒頭の病院)に結構な頻度で通っていた。父の漕ぐ自転車の後ろのカゴみたいな子供用の席に乗ってガタンガタン揺れながら運ばれる。送ってくれる記憶は父なのに、なぜか待合室の記憶は母といる場面しか思い出せない。

古いタイル張りの3階建てのビルで、1階が診察室、上の階が入院用の部屋と住居だったのだと思われる。

ガラス張りのドアを開けると広い玄関、そしてスリッパが置いてある。
受付を済ませて待合室で待つのだが、薄暗い部屋にバッハ等の室内音楽的なクラシックやポールモーリアの曲が流れていて、柱時計が少し高めの音で時を知らせる。

節電で昼間でも薄暗い待合室に置いてある本棚には、何故か怖い本と大人向けの雑誌しか置いていない。もしかしたら子供向けの本もあったのかもしれないが、母はなぜか「ハロウィン」という恐怖漫画専門の雑誌を渡してくる。わたしも自然に受け取り、怖いもの見たさで読んでいた。雑誌「ハロウィン」は伊藤潤二や犬木加奈子、御茶漬海苔など(敬称略で失礼します。)の個性派上質メンバーが揃っていて、大好きだった。

案の定、想像力がどんどん育ち、1人でトイレに行けなくなった。

しかも、“ヤゴさん”のトイレはものすごく暗い廊下の途中にあり、突き当たりは節電のために消灯していて真っ暗闇、例え何かがいたとしても何も見えないくらいの闇なのだ。そしてさらに、医院長のお母様(だいぶ高齢な上に厳しそうで怖い)が時々立っていたりするので、母に毎回ついてきて欲しくなるくらい恐怖の時間であった。

さらに、帰り道の坂の途中にあるお屋敷が、道路に沿ってカーブを描く廊下の様な不思議に薄い形をしていて、空いた窓から真っ暗な部屋が何となく見えて恐怖心を煽っていた。心の中で“パンプキン城”と呼んでいたその家に、何度も肝試しに行こうと友達と話していたのだが、結局叶わなかった。

肝心の治療室では、優しいお医者さんにひんやりする器具で診察された後、治療用のオルガンみたいな形状の機械の前に移動して、ガラスでできた喉用、鼻用の薬の入った霧が一定時間出てくる機械で治療を行う。喉用はマスク型なので気にならないが、鼻用は二つの穴にちょうどよく挿さる様に設計してあるため、治療中の見た目がちょっと恥ずかしい。椅子に座って鼻の両穴にガラスの器具を差し込みながら、本当にこうやって使うものなのかな…と疑問に思いながら毎回治療を受けていた。

ある時、わたしの愛するニセモノのおばあちゃんが、ヤゴはトンボの幼虫だから「ヤゴさんはいつトンボになるんですか?って聞いてきなさい」と言った。わたしは言われるがまま何も考えずにそのまま受付のお姉さんに聞いた。人見知りのわたしは、かなりがんばって聞いたのだが、なんだか微妙な雰囲気が流れ、恥ずかしさに震えた。
初めて“人に騙された”と思った瞬間であった。
ニセモノのおばあちゃんのお茶目さが現れた、なんとも言えないエピソードである。

“ヤゴさん”のあった鵜の木駅は商店街が栄えていて、下町らしい穏やかな活気があった。
ある時火事で焼失してしまったのだけど、一つの建物の中に、八百屋や食料品や衣料品が売っている小さなデパートの様な場所があって、迷路みたいで大好きだった。その中に入っていたお惣菜屋さんの、茶めしという名前で売っていた炊き込みご飯のおにぎりが美味しかった事を鮮明に覚えている。叶うならまた食べたい。

街の中華屋さんのラーメン、家族で営む駄菓子屋さん、かわいいシールがたくさん置いてある文房具屋さん、懐かしいお店の記憶が蘇る。

母と“ヤゴさん”に行った昼間、喫茶店の様に開いているスナックに寄って、母は紅茶、わたしはホットミルクを飲んだ記憶がある。少なくとも2回は行っている。
多分、お酒もタバコも必要のない母は、興味はあってもなかなか入ることのないスナックという未知の世界を、のぞいてわくわくしていたんだと思う。

この“ヤゴさん”を巡る思い出は、わたしをつくる大切な一部であり、幸せな思い出である。

fin

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