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第10話 熊野の巻

【いっしょに〝記紀〟を旅しよう!】第10話 熊野の巻

今回も「日本書紀」の記述をたどります。

皇軍は名草を出発して、狭野を越え熊野の神邑みわのむらに着いて天磐盾あまのいわたてに登った。

狭野さのは現在の和歌山県新宮市佐野周辺。
「狭野を越え」。通過しただけだからか、顕彰碑は今まで見た中で一番残念な感じでした(汚れていました)。

狭野顕彰碑


神邑みわのむら
の伝承地は、新宮市三輪崎 阿須賀あすか神社。境内に神邑みわのむら顕彰碑があります。

神邑顕彰碑
社殿の背後は蓬莱山(あすか山)。徐福の伝承が伝わります。
ご由緒
ご朱印


天磐盾あまのいわたて神倉かみくら神社

538段ある石段はかなりの急勾配です
ご神体 ゴトビキ岩
神倉神社は熊野速玉大社の摂社ですが、こちらが元宮で速玉大社は新宮と呼ばれます。和歌山県新宮市の市名の由来にもなっています。
ご朱印は速玉大社でいただきます
神武天皇もここからの景色を眺めたのでしょうか


再び船で東へ向かったが、突然の暴風雨にあって船団は漂流した。稲飯命いなひのみことが剣を抜いて海に入り鋤持神さいもちのかみとなられた。また三毛入野命みけいりののみことも波頭を踏んで常世国においでになった。

 二柱の神は王子神社に祀られています。「古事記」は、そもそもお二人の兄は東征に参加していないので記述はありません。


神武天皇と息子の手研耳命たぎしみみのみこと荒坂津あらさかのつに到着。そこで女賊 丹敷戸畔にしきとべを誅殺したが、その時毒気に当たり倒れてしまった。

 荒坂津あらさかのつ 「古事記」は、荒坂津あらさかのつ丹敷戸畔にしきとべも登場しません。「熊野村に着いたとき、大きな熊が現れて毒気にあたった」と記します。


 毒気にあたり生死を彷徨さまよう皇軍を救ったのが、〝記紀〟神話の国譲りに登場する 武甕雷神たけみかずちのかみ(古事記は建御雷神 鹿島神かしまのかみです)が国土を平定した霊剣 布都御魂ふつのみたま。その剣を神武天皇に届けたのは高倉下たかくらじという人物。ここまでは同じですが、誰が命じたかは違っていて、「日本書紀」は天照大神あまてらすおおみかみ、「古事記」は天照大御神あまてらすおおみかみ高木神たかきのかみニ柱の命令となっています。


注)高木神たかきのかみ高御産巣日神たかみむすひのかみ(日本書紀は高皇産霊尊たかみむすひのみこと)と同一神


「先代旧事本紀」は「日本書紀」と同じ内容ですが、天孫本紀に、

饒速日尊にぎはやひのみことの子の天香語山命あまのかごやまのみこと。(天降って後の名を手栗彦命たぐりひこのみこと、または高倉下命たかくらじのみことという)。この命は父の天孫の尊に随身して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。

と記します。つまり高倉下命たかくらじのみことは、饒速日命にぎはやひのみことの子 天香語山命あまのかごやま(尾張氏・海部氏(籠神社社家)・津守氏(住吉大社社家)らの祖)だと言います。

 余談ですが、熊野速玉大社の神職は代々穂積ほずみ氏(藤白鈴木氏)が努めていました。穂積氏と言えば石切剣箭神社いしきりつるぎやじんじゃの社家も木積こずみ氏(穂積氏)で、祖神 饒速日命にぎはやひのみこととその子可美真手命うましまでのみこと(古事記は宇摩志麻遅命うましまじのみこと)を奉斎していますが、こちら紀州熊野系の穂積氏はもう一人の饒速日命の子  天香語山命(高倉下)が祖神なのかも知れません。

熊野速玉大社

 
 兄3人が亡くなり、神武天皇自らも生死を彷徨さまよう中で、皇祖神は初めて救いの手を差し伸べ 霊剣 布都御魂ふつのみたまを授けました。この霊剣は今は 石上いそのかみ神宮布都御魂大神ふつのみたまのおおかみとして祀られています。

石上神宮 日本書紀で〝神宮〟と記されるのは、伊勢の神宮と石上神宮だけです。

 
 次回ですが、皇祖神は布都御魂ふつのみたまと、もう一人 道案内人をつかわします。そう八咫烏やたがらすですね。次回は八咫烏についてです。お楽しみに〜!

 

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