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第17話 葛城の土蜘蛛とその後


 神武東征の旅 第17話 葛城の土蜘蛛とその後

  高尾張邑たかおわりのむら土蜘蛛つちぐもがいた。その人となりは、身長が低く、手足が長くて侏儒ひきびとと似ていた。皇軍は葛のつるで網を作り、覆いかぶせて捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城かずらきとした。

日本書紀現代語訳

 『日本書紀』に記す葛城・高尾張たかおわりという場所について考えてみたいと思います。

 まず、どういうところかご紹介します。

特に何か観光施設があるわけではありません
北の方を眺めると奈良盆地が広がります。たしかに天上の高天原から眺めたように見えなくもない、、かな?
東の方角を眺めた景色。奈良盆地南部の山々は本当に「秋津(トンボ)がトナメ(交尾)しているよう」に連なりあって見えます。


 各地に高天原たかまのはらの伝承地はありますが、他と違うのは、祀られているのは天照大神あまてらすおおみかみではなく、 高天彦神社たかまひこじんじゃの御祭神が高皇産霊神たかみむすひのかみだといういうことでしょうか。


広めの駐車場があります。
駐車場からまっすぐ伸びる参道。鳥居の手間にある木。こちらは産道に通じているような・・😯
金剛山は役行者が転法輪寺を建てる前は高尾張山と呼ばれていました。
 その高尾張山の手前の白雲峰が高天彦神社のご神体山。そういえば吉野の国つ神 井光姫は白雲別神の娘でしたね。。
磐座
ご由緒


 駐車場の向かいに土蜘蛛の碑があります。

画像向かって左端の所です
蜘蛛窟碑 ※葛木一言主神社にも蜘蛛塚がありますが、あちらは源頼光の説話、謡曲「土蜘蛛」由来の塚です
説明書き 蜘蛛族と長髄族なんですね。。
2000年後の今も名が残っていますよー!



高皇産霊神たかみむすひのかみを祀る一族とは


 「高天彦神社たかまひこじんじゃの御祭神 高皇産霊尊は葛城氏が祖神を祀ったもの」と記す文献やネット上の記事をよく見かけます。その多くは古墳時代に絶大な権力を誇った葛城氏の事と混同しているように見受けられます。葛城氏の祖とされる武内宿禰たけうちのすくね葛城襲津彦かづらきのそつひこは、第八代孝元天皇こうげんてんのうの後裔で、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』には「皇別こうべつ」(天皇家から分かれて臣籍に下った氏族)に分類される氏族ですので、高皇産霊神を祀る事は無いと思います。

 また、剣根つるぎねを在地の首長とする見解も見かけるのですが、当地の土蜘蛛を討伐したわけですし、在地の国つ神が天神の高皇産霊神を祀ることもないと思います。

 では誰の祖神かと言うと、『先代旧事本紀』「国造本紀」に神武東征の論功行賞で葛城国造かつらぎのくにのみやつこに定められた劔根命つるぎねのみことが高皇産霊神の5世孫とありますので「葛城国造劔根命の後裔一族が祖神を祀った」ものと考えられます。祖神を祀るという観点からすると、葛城襲津彦を祖とする葛城氏が本拠とする前に当地を拠点とした葛城国造の後裔一族は、葛城氏とは別の氏族と考える必要があります(ただし母系ではつながっていますが)。


 神武東征第一の功労者 椎根津彦しいねつひこ倭国やまとのくに国造くにのみやつこに、そして剣根つるぎね葛城国かつらぎのくにの国造に定めました。国造に定められたのはこの二人だけです。国造とはその地方を統治する地方長官ですので、『日本書紀』は、神武天皇の時代、大和には倭と葛城という2つのクニ(いくつかのムラを束ねた規模?)があったことを示しています。

葛木御縣神社


葛木集落の中に葛木御懸神社かつらぎみあがたじんじゃがあります。あがたとは、古代の行政単位の一つで、大和には6つの懸があり、こちらはそのうちの一つです。
本殿 主祭神 劔根命つるぎねのみこと
鳥居と拝殿
神社裏から望む葛城山

 

神武東征譚で隠された人物


 剣根命つるぎねのみことの話しに戻ります。信憑性に乏しい系図に載っていたり、それらから謎解く様々な説があったりしますが、私は常に『記紀』編纂者が「どう考えて記したか」を考えるスタンスなので、別の見方をしています。

※『古事記』には剣根命は登場しません。

 神武東征譚で、熊野に上陸した皇軍は毒気にあたり窮地に陥ります。その時皇軍を救う為に、高倉下に布都御魂の剣を降ろすことを(武甕槌命に)命令したのは、『古事記』は天照大御神と高木神(高皇産霊神と同神)。『日本書紀』は天照大神でした。熊野の山中で道に迷った皇軍を導くために八咫烏を遣わした神は、『古事記』は高木神。『日本書紀』は天照大神。宇陀で神武天皇の夢に現れ啓示を与えた神は(『古事記』これ以降エピソード記載無し)『日本書紀』天照大神。

   ところが『日本書紀』もこの後、国見丘の八十梟帥を討つ時に神武天皇が高皇産霊尊の顕斎うつしいわい憑代よりしろ)となって祭ったとあり、橿原宮即位後皇祖神に大孝を申し上げる為に霊畤まつりのにわで祀った神も高皇産霊尊と記します。

  熊野から国中への道程でなぜ高皇産霊神が度々記されるのか。『日本書紀』の記述を考えてみると、天から命令して助けを差し向けているのは天照大神で、戦勝を祈念したり、それが成就してお礼を述べたのが高皇産霊神と分類することができます。

 そして、その後の論功行賞で高皇産霊神の5世孫の剣根命を葛城国造に定めたわけです。どうもこのストーリーの中には隠された名前があるように思えてなりません。


天香語山命あめのかごやまのみこと

 私は、剣根命とは高倉下(天香語山命)のことではないかと想像します。なぜ名を変えなければならなかったのかは思いあたることがあります。末子相続です。『日本書紀』は仁徳天皇までは一貫して兄ではなく弟を正統な後継者として描きます。これまでにも兄猾と弟猾、兄磯城と弟磯城など、どちらも弟は帰順して兄は従わず誅されます。『先代旧事本紀』によると(長髄彦を斬って帰順した)物部氏の祖神 可美真手命うましまでのみこと宇摩志麻遅命うましまじのみこと)の異母兄に当たるのが天香語山命なので、兄を功労者として描けなかったのだと思います。

 尾張氏は、第5代孝昭天皇の皇后 世襲足媛よそたらしひめの姉 瀛津世襲おきつよそが祖と『記紀』や『先代旧事本紀』に記されます。『先代旧事本紀』「天孫本紀」に記される系譜によると、天香語山命あめのかごやまのみこと天村雲命あめのむらくものみこと天押男命あめのおしおのみこと瀛津世襲命おきつよそのみこととされます。また、(諸説ありますが)尾張氏は元は葛城を本拠としていたという説が有力です。

   以上のようなことを重ね合わせて考えると、剣根=天香語山命という考えに行き着きました。神武東征譚では実は熊野から皇軍に加わっていた(兄磯城を説得する場面では兄倉下・弟倉下という謎な人物が登場します)のではないでしょうか。熊野で皇軍の窮地を救い、その後も皇軍に加わっているなら、葛城国造も納得できる話しです。

葛木坐火雷神社かつらきにいますほのいかづちじんじゃ

 葛城には、葛木坐火雷神社かつらきにいますほのいかづちじんじゃという古社があります。ご祭神は火雷大神ほのいかづちのおおかみと、笛吹神社に祀られる天香山命あめのかごやまのみことの二柱。元は別々の神社のご祭神ですが、葛木火雷神社は中世には社勢が衰えて笛吹神社の末社になったようです。明治7年、式内大社だった火雷社を笛吹神社に合祀して、社名を葛木坐火雷神社と改め現在に至りますが、今でも(笛吹神社)と併記されることが多いようです。笛吹連ふえふきのむらじは尾張氏系の氏族です。


本殿横にあります。



 最後までお読みいただきありがとうございます。できるだけわかりやすく書こうとするのですが、なかなか上手くいきません(^_^;)

次回は皇后 媛蹈鞴五十鈴媛ひめたたらいすずひめの巻です。






 

 




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