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JW42 吉野三人衆

【神武東征編】EP42 吉野三人衆


前回は宴会の模様を紹介させてもらった。

久米部の歌う唄は、来目歌(くめうた)と呼ばれ、宮中の儀式で歌われることになる。

今でも、唄に合わせて舞う久米舞(くめまい)が、天皇即位後に挙行される、大嘗祭(だいじょうさい)にておこなわれている。

ここで、永遠のセンター、大久米命(おおくめ・のみこと)が語り始めた。

大久米(おおくめ)「二千年後も歌われてるんすから、イギリスの某有名バンドにも負けない歌い手だと思いませんか?」

すかさず、本編の主人公、狭野尊(さの・のみこと)(以下、サノ)がツッコミを入れる。

サノ「そのネタは禁止とする。ビートルズの真似事は、これで、仕舞いじゃ!」

大久米(おおくめ)「せ・・・せっかく、名前は伏せておいたのにっ!」

そのとき、夜麻都俾(やまとべ)(以下、ヤマト)が乱入してきた。

ヤマト「我が君っ。それよりも、今回は吉野周辺の視察旅行が本題! 早く参りましょう!」

サノ「わ・・・分かった。では、出発しようぞ!」

サノたちは、菟田(うだ)の穿邑(うかち・のむら)から軽装兵を引き連れ、巡幸(じゅんこう)をおこなった。

吉野巡幸へ

ちなみに、巡幸とは、天皇が各地を旅行することである。

一行は、紙面の都合で、あっという間に吉野河(よしのがわ)の河尻(かわじり)に到着した。

菟田穿邑から吉野川河尻

吉野川の最下流、現在の奈良県(ならけん)五條市(ごじょうし)北部と考えられている。

到着した一行が景色を眺めていた時、すぐ傍の井戸から、人が出て来た。

井戸といっても、後世でいう地中を掘ったものではなく、川岸に桁(けた)を出したものと思われる。

桁とは、木を井の字形に組んだものである。

よって、川から上がって来たという意味であろう。

ちなみに、その人は、光り輝き、尻尾があった。

サノ「なっ・・・なんじゃ? だ・・・誰ぞ?」

その人「アタシは、国津神(くにつかみ)の井光(いひか)だよ。」

サノ「台本にはないが、説明も頼む。」

井光(いひか)「うん、分かった! アタシは、吉野首部(よしの・のおびと・べ)の始祖だよ。『古事記(こじき)』では、井氷鹿(いひか)と記載されてて、『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、水光姫(みひかひめ)っていう女神とされてるよ。」

サノ「汝(いまし)が口にした『新選姓氏録』とは、平安時代の815年(弘仁6年)に編纂された書物じゃな。じゃっどん、驚いたぞ。女かもしれぬということか?」

井光(いひか)「そうだよ。そんで、アタシの本拠地は、今の奈良県(ならけん)川上村(かわかみむら)だよ。読み方は違うけど、井光(いかり)っていう地名もあって『井氷鹿(いひか)の里(さと)』と呼ばれてるよ。アタシを祀(まつ)った井光神社(いかりじんじゃ)もあるよ。『もりもり館』っていう施設もあるんだよ。」

井光・川上村
井光神社1
井光神社2
井光神社3
井光神社前面
もりもり館

サノ「そうか・・・。それで、汝(いまし)は何をしに来たのじゃ?」

井光(いひか)「道案内に来たよ! プランも立ててるよ!」

大久米(おおくめ)「どんなプランすか?」

井光(いひか)「土地神谷(とちかみだに)を過ぎて、休石(やすみいし)に腰かけた後、御船山(みふねやま)の尾根にある拝殿(はいでん)で、波々迦(ははか)の木を燃やして、鹿の骨で占って、御船の滝の上に宮柱を立てて、天乃羽羽矢(あまのはばや)っていう、高天原(たかまのはら)で作られた矢を納めて、皇軍勝利を祈願するってプランだよ。」

井光・御船
井光・御船の滝

ヤマト「いろいろ廻るのじゃな。ところで、波々迦の木とは、何でござる?」

井光(いひか)「上溝桜(うわみずざくら)のことだよ。今でも、大嘗祭(だいじょうさい)に用いる米を作る田んぼを決める時に、この木が使われてるんだよ。」

サノ「ちなみに、天乃羽羽矢の使用許可を出した記憶はないぞ。」

とにもかくにも、井光の案内で周辺を視察した一行は、しばらくして、新たな人物に遭遇した。

その人は、磐石(いわ)を押し分けて現れ、またもや尻尾があった。

サノ「次は汝(いまし)かっ。 誰じゃ?」

その人「おいらは、国津神の磐排別(いわおしわく)。天孫が来ると聞いて、お迎えに上がっちゃったのさ。ついでに、説明すると、吉野国栖部(よしの・のくず・べ)の始祖さ。奈良県(ならけん)吉野町(よしのちょう)国栖(くず)の出身さ。今でも、国栖の里っていわれてて、奈良県景観資産になってるのさ。」

吉野町国栖
国栖の里

サノ「説明かたじけなし。それで、尻尾があるというのは、どういうことじゃ?」

磐排別(いわおしわく)「木こりなどが、獣の革で作った尻当てを垂らしてるでしょ? あれを見て、尻尾と思われたんじゃないかって説が出ているね。」

サノ「なるほど・・・。」

その後、一行は、川に沿って西へと向かった。

そこで、簗(やな)を作って魚を獲っている人がいた。

ちなみに、簗とは、竹で編んだ筒状の漁具である。

ここで、博学の天種子命(あまのたね・のみこと)が、サノにツッコミを入れた。

天種子(あまのたね)「我が君、声をかけんと、あかんのや、あらしゃいませんか? 声をかけて欲しそうにしておりますよ。」

サノ「そ・・・そういうものか? 汝(いまし)は誰じゃ?」

魚獲る人「俺か?! そう、俺が、国津神の苞苴担(にえもつ)ってんだ。阿太養鸕部(あだ・のうかい・べ)の始祖なんだなあ。奈良県(ならけん)五條市(ごじょうし)の東部に、東阿田(ひがしあだ)、西阿田(にしあだ)って地名があるんですがね、まあ、そのあたりの出身じゃないかと思われてるみたいですなあ。」

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サノ「それで、汝(いまし)もお迎えに上がろうと、ここに?」

苞苴担(にえもつ)「まあ、簡単に言うと、そういうことですな。」

ヤマト「ところで、養鸕(うかい)という難しい文字が使われておりまするが、鵜飼(うかい)ということですかな?」

苞苴担(にえもつ)「さすがだなあ。その通りでござんすよ。お兄さん、物知りだねぇ。」

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ヤマト「そんな古くから、鵜飼による漁法があったのですか?!」

苞苴担(にえもつ)「太古の昔から、やってたみたいですよ。」

魚を獲る人こと、苞苴担の解説は続くのであった。

つづく

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