キミちゃん

昭和14年生まれ。「全ては体験」そう思って生きてきました。そんな体験を今度は書くという…

キミちゃん

昭和14年生まれ。「全ては体験」そう思って生きてきました。そんな体験を今度は書くということに挑戦してみたいと思います。

最近の記事

横浜から愛知県へ

お友達ともやっと親しくなり 私も子供達も楽しく過ごせるようになってきた頃 主人の会社の転勤が決まりました 転勤先は愛知県でした 最終的には会社からの辞令ではありましたが 長女がずっと小児喘息を繰り返していたので 「もし、転勤できるなら空気の綺麗な場所に」 と希望を出していたのが叶った形でした そのころの横浜は「鶴見喘息」と言われるほど 公害で空気が汚く、1日で鼻の穴が真っ黒になるほどでしたから やっと慣れたのに・・・と思う気持ちもありましたが これで長女の喘息が良

    • 子育ての楽しい日々

      少しずつ周りの人との関わりもできてきた頃 保育園のお友達やピアノ教室のお友達と10名で 私の実家の和歌山に遊びに行くことになりました 多少は良くなったとはいえ なかなか幼稚園にもお友達にも馴染めない長女に 少しでもお友達を作ってあげたい との思いがいつもありました 和歌山行きには私のそんな願いも込められていました この4泊5日はとても楽しい思い出になりました 今思うと、和歌山の父母は こんな大所帯を歓迎してくれ 食事の世話や布団の世話を喜んでしてくれて 本当に頭の下が

      • 再び横浜に帰ってきました

        実家にいるうちに次女のお宮参りも済ませ 父は紅白の餅をついて実家の近所じゅうに配ってお祝いしてくれました 長女の時は全く出なかった母乳も 次女の時は溢れるほど出ました 精神状態がこんなに母体に影響を与えることを身をもって知りました 4ヶ月が過ぎ 長女が4歳の誕生日を迎えたあと 横浜の家に戻ってきました 次女はもうニコニコ笑うようになっていました 実家から駅に向かう帰りのタクシーの中で 「頑張らねば!」という気持ちと またあの知らない土地で話の通じない主人と暮らすのか・

        • 不思議なお話①

          ここで、少し不思議なお話を書いてみようと思います。 信じて頂けなくても大丈夫ですからね。 この科学の時代に、そんなこと・・・と思われる方もいらっしゃると思いますが とりあえず、かいてみますね。 私の実家は「天理教」という信仰をしておりました。 それは代々祖母からのものだったのではないかなと思います。 和歌山県は奈良県の近くですので、信者さんも多いのでしょうかね。 私の村のほとんどの人たちが天理教というような感じでした。 ですので、私も小さい頃から 病気をしたり熱を出した

        横浜から愛知県へ

          主人のことについて②

          父親としての役割や 一家の大黒柱としての役割は 全く期待できなかった夫でしたが 長女の子供が生まれた時から 別人のように孫の面倒を見始めたのです。 主人はよく 「女の子はすぐビービー泣いてあかん」と言っていました。 実際長女はよく泣く子でしたので、そう思ったのでしょうか。 しかし孫は男の子だったこともあってか そんなことは全く言わず 泣けばすぐ抱っこしあやしていました。 「男の子はええなあ。男の子はかっこいい」と嬉しそうに言っては 自らすすんでおんぶ紐で孫を背負い 何

          主人のことについて②

          主人のことについて①

          ここで、少し私の知る限りの主人の生い立ちについて記しておこうと思います。 主人は昭和11年生まれ 私の実家の隣村の出身でした。 以前も書いたように 私の高校の同級生のお兄さんでした。 主人の実家はその地域一体では有名な名家といいますか 小作人を何十人も使っているような大百姓の家でした。 今あの生家が残っていたら、立派な古民家として有名になっていたかもしれません。 その家の名前は、小さい頃から私も知っていたくらいでしたので 本当に有名だったのだと思います。 ですが、主

          主人のことについて①

          二人目を授かりました

          慣れない土地の暮らしと経済的な不安は抱えながらも 昭和44年二人目の子供を授かりました。 私は出産の2ヶ月前から 実家のある和歌山に戻りました。 自分自身が疲れ果てて早く実家に行きたかったこともありますが 長女が少しでも健康になってたくさんの人の中でも ニコニコ笑うような子供になってほしいと願ってでもありました。 しかし田舎に帰った長女は 虫や土が苦手で、何を見ても「こわい」「いやだ」ばかりで 私から離れようとせずに泣いてばかりいました。 父母も苦心して世話をしてくれま

          二人目を授かりました

          長女の登園拒否

          それでも日常は続き 自分の貯金と実家にも助けてもらいながら暮らしていました。 そんな中で夫の体調は 信じられないようなことで嘘のように回復していったのですが そのことについてはまた後に記しますね。 そして長女も幼稚園に入園する年齢となりました。 親子3人の閉鎖的な生活から 「これでやっと他の人との繋がりができる!」と 思ったのも束の間・・・ 入園して数日経った頃から 幼稚園の門の前に行くと 娘がワーワーと泣き出すようになってしまいました。 いわゆる 「登園拒否児」にな

          長女の登園拒否

          心が追い詰められて行きました

          日に日に困窮していく中でも どうにか暮らして子供を育てて行かなくてはなりません。 長女は本当によく泣く子供で 寝かせつける時はミルクが足りていればすぐに寝るのですが 目を覚ますと何をしてもグズグズと泣き続ける子供でした。 またそれに加えて 喘息の発作を起こすようになりました。 1ヶ月に一回は高熱を出し病院にかかり吸入をしたり 時には入院をしなくてはならなかったりしました。 夫に何か相談してもまともな返事は返ってきませんし 自分に都合の悪い話になるとす〜っとその場から逃

          心が追い詰められて行きました

          ミルクも買えない生活

          実家の母もひと月しないうちに和歌山に戻っていきました。 もうすっかり母乳が出なくなってしまったことで 粉ミルクを買う必要がありました。 初めての子育てで不安がいっぱいでした。 長女はとてもよく泣く子で、私は悲しさとイライラも募っていきました。 そうするとますます追い打ちをかけるように泣くのです。 何度一緒に泣いたかもわかりません。 長女は眠る時はミルクさえ飲ませればスッと寝るのですが 起きると機嫌が悪くずっと泣いていました。 夫からのお給料は その当時は給料袋での手渡

          ミルクも買えない生活

          母乳も枯れるほど

          自宅に戻り、夕方主人が仕事から戻って来ました。 母が娘を抱っこして 主人に 「はい、お父ちゃんやで」と言って初めて娘を抱かせました。 すると主人はとても慌てた様子で でも、一瞬とても照れくさそうな顔をして 「おそろしいよ、こんな小さい子、おそろしいよ」 と言って、一瞬抱っこしただけで母にすぐに渡してしまいました。 私は「なぜすぐ病院に来なかったの?」と聞きたかったのですが なぜか言い出せませんでした。 おおよそ検討がついていましたし 聞いたところでまともに答えが返ってく

          母乳も枯れるほど

          母になりました

          一晩中苦しんでやっと明け方に産まれた娘でした。 ぐったりしている私に婦長さんは 「きっと娘さんは美智子妃殿下と同じ日に生まれたくて今朝まで出てこなかったのよ。 日本中の人たちからおめでとうって言われてるよ」 と声をかけてくださいました。 その言葉のどんなに嬉しかったことか・・・。 看護をする者の言葉の大切さを改めて感じました。 その立派なお誕生日を頂いた娘を これから頑張って育てていかなければなりません。 と思った矢先 そこでまた問題発生でした。 長女が生まれてもい

          母になりました

          難産の末

          お産のことを少し書かせていただきます。 私は本当に難産でした。 看護婦で働いていた頃に何人もお産を介助して来ましたし お産というものも頭では十分理解していました。 私は微弱陣痛で、もうそこまで赤ちゃんが降りて来ているのに 陣痛が弱くなかなか生まれて来ず 丸一昼夜、病院の分娩台の上で過ごしました。 そのころは暖房設備も整っていなかったのか 10月の寒く固く冷たい分娩台の上でぐったりしながら 「看護婦さん、こんなにしんどいんだったら2度と子どもはいらないです」 と言うと な

          見知らぬ土地で

          高級と言われた不思議ながらんとした長屋のような社宅で 新婚生活は始まりました。 なんといっても主人は大きな会社に勤めていると聞いていたので 「どうにか大丈夫だろう」と不安な自分に言い聞かせながら日々を過ごしておりました。 そうするうちに「何かおかしい」と流石に私も感じるようになりました。 主人は朝、背広を来て腕時計をはめて出勤したはずなのに シャツとズボンだけで腕時計もせず帰ってくる日が多いのです。 尋ねると 「ちょっとな、質屋に入れてきた」と悪びれるでもなく答えます

          見知らぬ土地で

          いざ!横浜へ!

          などなどなど 様々な疑問符を抱えながらも新居である横浜へ向かいました。 義母の口利きで一軒家の社宅を用意してあるとのことで 楽しみに向かいました。 何と言っても全国規模の大会社の社宅ですし そこは重役クラスの人しか住めない社宅だというのですから。 そして到着した私の率直な最初の感想は 「え?ここ?」という感じでした。 貧しいながらも 田舎の広い敷地で育った私には 本当にウサギ小屋のようにしか見えませんでした。 「でもこれが都会なんだろうなあ」と思い直し 家に入ると が

          いざ!横浜へ!

          この頃はまだ私のツノはツノ隠しの中に

          「何だかおかしいかな?」などと思う余裕もなく・・・ というのも、父と母の結婚生活をずっとみてきたので 「恋愛は楽しむものだけど結婚は現実だ。苦しいものなんだ」 と私はずっと思いこんでいたのだと思います。 ですから、多少疑問に思うことがあっても 「まあ、どうにかしていけばいいかな」くらいに考えていました。 新婚旅行の行き先も決めておらず、 宿泊代まで自分のお祝儀で払ったというのは前回記しましたが もう一つ他人が聞いたら驚くようなことがありましたよ。 それは 結婚式当日に

          この頃はまだ私のツノはツノ隠しの中に