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緑で武装する(心の弱いまだ見ぬ友人へ)

長いこと、人類の歴史を直視するのを避けてきた。歴史というよりは、人類がしでかしてきたこと、というべきか。なぜならそこにはいいものもあるが、悲惨なこともたくさんあるからだ。知るべきことがあることを感覚ではわかっていたからこそ、自分がそれを直視するのに耐えられないと思ってきた。

私は若い頃から同調する感情が強すぎて、遠くの話でも平常心に戻るのに数日を要することがある。新聞もテレビも見ないのはそのせいで、マスコミに対する批判からくる意識高い系だからなんかじゃなく、つまりは逃げていた。それは社会性に欠けることであるが、自分がなんとか掻き乱されずに生きる方を優先してきたわけだ。ごめんなさい、なんだけれども。

他者の不幸を見たり学んだりしないでやってこれた、というのは偏に自分がある程度恵まれた環境に生育して、父祖が勝ち取った権利を天与のもののように思って手放さずにやってこられたからだ。差別なんかないよね、という被差別の心配のない立場と同じだ。それが傲慢なことであるのは自認している。

昭和のど真ん中に生まれ育った女子としては、当然生きにくさを感じていたけれど、それも、おかしいよね?という疑問は抱えたまま、受け止めて流して、やり過ごしてこられる境遇にあったのだと思う。人はやり過ごせないほど苦しければ、その環境の理不尽に気づくものだから。

やっとこの頃、そういう事実を見つめるに十分な強さができたと我ながら思う。
豊かな山と海のある街で木々に囲まれた質素な庭で雑草に絶えず足元を競いながら暮らしていて、私の武装はこれなんだな、と認識した。一生としてはずいぶん尻尾の、出口に近いけれど。

悲しいことに揺さぶられ、酷いことに憤って感情が短く途切れた直線のように折れても、毎度自分に戻ってこられる。自分を落ち着かせ、潤わせ、守るのは周囲の植物で、その側に日々を生きることで、私の心は強くなるらしい。

夏は過去を振り返る季節でもある。詠み人知らず「八月は六日九日十五日」
さて、だからこの夏からは人類が、日本人が、しでかした顛末をこれまでより少し積極的に見に行こうと思う。今夜はもう10年近く躊躇っていた映画「ひろしま」を観る。

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