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わからないことをわからないままに

森達也監督の映画「福田村事件」が封切った。少し前からこの事件を史実として調べ続けてきた辻野弥生さんの同名著書を読んでいた。

地球に起こる人類のもたらす災いのうち大規模なものの多くは「善人が善人を殺す」という形態をとっている事実を考える。アウシュビッツ然り、ルワンダの大虐殺も、この福田村事件に限らず関東大震災で起きた全国的な朝鮮人虐殺もそうだ。大きな括りで言えば戦争もその範疇に入るかも知れない。

私たちは扇動するものがあれば簡単に扇動され、勢いづく。これを止めるためには扇動するものを見つめて、その扇動の根拠を知ること、主語やことを大きくする人や組織を冷静に観察して、その利益を知ること。例えそれが政府のような圧倒的な権力を持つ組織であっても。

もうひとつは、私たち庶民が「何か」に強くなることかなぁとずっと考えている。その「何か」ってなんだろうか。濁流に竿をさして、それが揺らいでもぶれてもいい。でも、最後に流されてしまわないために、どうすればいいんだろう。どうすれば最後まで「自分」を維持できるだろう。

ひとつじゃないかも知れない。ぼんやりしているのだが、この頃少し、私の中で形作られてきた。まだ、しっかりとした考えでないけれど、そのひとつはわからないことをわからないままにしておくことじゃないだろうか。いや、わからないことはわからないでしょ?とすぐさま反応しないで欲しい。

わからない、ということをそのまま飲み込むことは、実は結構難しい。わからない、というのは不安を呼び覚ますからだ。新型コロナウィルス感染症もそうだったし、マウイ島の山火事もそうだ。

様々な犯罪事件にもその判決にも違和感のあることがある。複数が関わる犯罪では、その発生理由は単純ではないはずだ。けれど、人というのは理由をつけてそのことに納得して安心して怒ったり、責めたりしたいもので、トランプ支持者は天災すら闇の組織の陰謀であると決めつけてしまう。

「こうだったりしてね」という軽い仮定、それが流言飛語となり、ことばは信憑性を持つ。実際に口に出すと音として耳に聞こえ、口にした本人を唆すことになる上に、それを聞いた人を説得する力を持つ。多分これも言霊とか音霊と言われる作用のひとつだろう。

不安な感情は一気に出どころ求めて押し流されるように、人々を行動に駆り立てる。これが恐ろしいと芯から思う。それはひとりひとりが考えて、決めて、行動した結果ではなかったりする。「流されて」「乗った」だけなのに、犠牲者は必ず生まれる。流されて、乗らされないように、私は私の何を強くしなくちゃならないんだろう。

新しいものへの不安は常にある。その不安からの本当の解放は、考え続けた人によって新しい概念が生まれ、その感情や事物に名付けられ、それが浸透した時だ。あるいは腑に落ちた、という確信による。

そのようにして、人類は長いこと新しいものの発生を受けいれ、その新しさ故の不安に怯えながら耐え、時にその新しいものを概念として名付けられて、ここまで来たわけだ。その道筋の時々に、不安が異常に拡大することがあって、流されて、乗らされて、その暴発で残虐な事件が起きる。

わからないこと。
これに私は耐えようと思う。わからない、と発声することを恥ずかしがらず、〇〇らしいよ、と声を顰めて囁く仲間意識の共感は避けよう。短絡的に誰かを責めたりするのはもっての外だし。

それと、わからないと全部を投げ出すのでなく、わからなかったことのうち、興味の持てるいくつかは調べてみよう。調べてそれを知れば、いつかのやつ、わかったよ、と告げよう。わからないことの怖ささから逃げずにいよう。うん。

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