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与えられた役を、どう演じるか。


人間の価値は、みな同じだ。でも、だからといって、役割が同じワケではないんだと思う。どうやって考えてみても、人には、人それぞれの役割があるんだと思ってしまう。それを個性と呼ぶのかもしれないが、そんな役割は確実に存在する。


食事会になれば、ウチは必ず「聞き役」になるし、どう頑張っても剛腕を振るって人を束ねるような「リーダー役」にはなれない。でも、別にここに優劣があるワケではない。これは、人それぞれに割り振られた「役割」なんじゃないかしら。


ドラマに出てくる役柄を演じるようなもので、「自分に与えられた役」があるんだと思う。


そう。だからこそ、与えられた役を「どう演じるか」が大事なんだよね。自分を役者のように考えるのは恥ずかしいけど、かの有名なシェイクスピアの書いたセリフに《この世は舞台。人はみな役者》という言葉があるくらいなので、特に恥ずかしがることはないのかもしれない。


大勢の民衆を導いていくような役もあれば、頭を使い、バックアップに専念するような役もある。なにもかもが中流で、だからこそ何色にでも染まれてしまうオールラウンダーのような役もあるし、全てにおいて能力が衰えてしまい、世界に絶望し、堕落してしまったような役もある。


全てが役であり、その人に与えられた「役割」を演じている。小説家を演じる者に、アスリートのような運動能力は必要ない。いや、能力を持っていてもいいかもしれないが、役には適していない。もし、そんなキャラクターがドラマの中に登場したら、「いや文章書いてないで、アスリートになりなはれや!」とツッコミを入れるだろう。


そう。役には、その役の「役割」があるのだ。


でも、これも「どう演じるか」でキャラクターが変わってくる。


もし、その役が「文章も書けるアスリートになりたい!」と思っていたとしたら・・・。そして、そのための行動を重ねていたとしたら・・・。視聴者の反応も変わってくるはずだ。


役割は確かにある。でも「どう演じるか」次第では、変えることもできてしまう。すると、キャラクターが変わり、役割も変化していく。でも、だからといって、そこに優劣があるワケではない。大役だろうが端役だろうが、関係ない。繰り返しになるが、人間の価値は、みな同じだ。


だから、まずは自分に与えられた役は、どんな役柄なのかを考えてみるといい。


そう考えていくと面白い。それこそが「自分を俯瞰する視点」なのかもしれないね。「自分とはなにか」を考えてしまうと、漠然として答えが見つからないことが多い。でも、自分の役柄や、役割を考えていくと、とても現実的なものが見えてくる。


たとえば仕事のことを考えてみると、すぐに役柄は見えてくるだろう。「学生」とか、「会社員」とか、「経営者」とかとか。そして、交友関係での自分のポジションを考えてみたり、休日のタイムスケジュールを書き出してみて、自分の生態系や属性を考えてみる。すると、なんとなく自分の「役柄」が描けてくるのではないだろうか。


そうして「自分の役」が分かってくれば、自ずと役の方向性は見えてくる。


そこでやっと「どう演じたいか」が大切になってくるのだ。自分の役を認識した上で、「役割」と「どう演じるか」の方向を擦り合わせる。意外と役割から外れた行動をしていることに気付いたり、反対に方向性がピッタリ合っていることもある。そうこうしているうちに、新たな自分を見つけることもできるのではないだろうか。


もう、役は与えられているのだ。


ウチは普通に仕事をしている。フツーもフツーの仕事で、日々、与えられた役を全うしているつもりだ。noteでは、「文章」を書いているけれど、役柄とは一切関係ない。そう考えると「役割」と「行動」がズレているのが分かる。だから、これは、ただの趣味にすぎない。


でも、心の底では「書く人になりたい」とも思っている。だから、書いている。それはつまり「書く人を演じたい!」ってことなんだよね。


この世は舞台。


自分が主役の舞台だ。


あとは、どう演じるか・・・。


ズレていると分かっていても。


ウチは、書きたい。


はい。


そんな再認識をしました。


わああああああ!


がんばろおおおおおおおお!



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