「パリ、テキサス」と「東京物語」、心の空白と風景(世界)の光の物語
10月23日(月)から始まる東京国際映画祭「小津安二郎の生誕120年、没後60年記念」で、小津監督の35本の映画がアーカイブで上映されるという。
コンペティション部門の審査委員長は、ヴィム・ヴェンダース。
映画「ベルリン 天使の詩」は「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」と、映画監督:小津安二郎、フランソワ・トリュフォー、アンドレイ・タルコフスキーに捧げられている。
この機会にヴィム・ヴェンダース監督と小津安二郎監督、二人の共通点を「パリ、テキサス」(1984)と「東京物語」(1953)から考えてみた。
ネタバレあります。
小津安二郎は言った。
ヴィム・ヴェンダースは言った。
「見えない所がもののあわれ」
「何かをうしなってしまったという感覚からくる痛切な哀感」
二人の監督の映画に共通する普遍的な感情。
映画「パリ、テキサス」の内容に触れると。
西部劇の舞台、モニュメントバレーを無精ひげに赤いキャップのトラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)はどこかに向かってただ歩いている。
彼は突然、廃屋のようなモーテルで行き倒れる。
トラヴィスは病院に入院させられ、ポケットの名刺からロサンゼルスの弟ウォルト(ディーン・ストックウェル)が呼び出される。
弟の話から、4年前の出来事のショックから、家族を捨て、失踪中だった兄トラヴィスの事がわかる。
トラヴィスは、ロサンゼルスに向かう弟の車に乗ってからも隙があれば、車から離れ、一人線路沿いに歩く。
線路沿いの向こうには何もない原風景のような荒野。
トラヴィスは、家族を、愛する人を失い、記憶をうしなったまま「パリ、テキサス」を目指して、ただ歩き続けていた事がわかる。
兄の視線の先は、弟ウォルトにとっては、先の見えない何もない風景。
トラヴィスは、心の空白の先にある「パリ、テキサス」を目指していた。かつて、母が父と初めて愛を交わし自分の命が生まれた場所。
テキサス州のパリ。トラヴィスが、通信販売で買った辺鄙な地所。
「東京物語」は、広島の尾道の老夫婦・周吉(笠智衆)ととみ(東山千恵子)が、東京で働く子供たちに会いに行く物語。
東京での子供たちの生活は忙しく、老夫婦は、小さな医院を開業している長男の家から、美容院を経営する長女の家へとたらい回しにされる。
その後、戦死した次男の嫁・紀子(原節子)の案内でやっと東京見物をし、一人住まいの狭いアパートへと招かれる。
老夫婦は紀子に優しくされるたび、浮かんでくるのは戦争で失われた命。周吉、とめ、紀子が共有する亡き次男、亡き夫への心の空白。
心の空白を埋める何かを探す旅。二本の映画の主人公たちが失ったのは、家族の空間とその空白。
老夫婦に対する実の息子と娘の対応は、仕事が忙しく両親をもてなすことが出来ず、熱海旅行に追いやったりと、老夫婦には期待外れ。
宿が騒々しくてよく眠れなかった翌朝、朝日に光る熱海の海を見ている周吉ととみ。心の空白と風景(世界)の中の光。
一方「パリ、テキサス」の トラヴィスの息子のハンター(7歳)(ハンター・カースン)は、「家族崩壊」の4年前の出来事の後、父トラヴィスと母ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)に置き去りにされ、ウォルトの家にいた。
当然の事だが、突然現れた父・トラヴィスになかなか心を開かない息子のハンター。
そんな二人に、弟のウォルトは、トラヴィス夫婦とハンターと一緒に過ごした海辺での8㎜映画を見せる。
この映画を観ているトラヴィス、ハンター、ウォルト、アンヌ(弟の妻・オーロール・クレマン)の8㎜映写機の光が照らす空間とライ・クーダーの音楽が、ほのぼのとして美しい。
家族の8㎜映画への視線を親子が共有する事で、父と子の心が急速に近づく。ヴィム・ヴェンダースは言った。
誰かの寂しい心にそっと寄り添い、共感し、
その視線の先に「かってあった大切な時間、空間」を、光を通してもう一度見せる事。あるいは「自分の大切な空間を思い出す事」
次の日から、トラヴィスと息子ハンターは、失われた母を探す旅に出る。
対照的に「東京物語」では、老夫婦が広島の尾道に帰ったとたん、子供たちの母とみ(東山千栄子)を突然の病気で失う。
東京の息子も娘も大阪の息子も、突然、母を失い、今まで意識しなかった自分の心の空白(大切な時間と空間を失った事)を実感する。
小津安二郎は「東京物語」についてこう言った。
とみ(東山千栄子)の死の翌朝、夜明けの尾道の海を見る周吉と紀子。
周吉の心の空白を共有できるのは、血のつながらない次男の嫁・紀子(原節子)だけ。この視線の向こうの夜明けの海の光の共有はこの二人だけ。
「東京物語」が家族の崩壊を描きながら、どこか切ない中に力強い励ましを受けとる。それは小津映画には珍しい紀子(原節子)のラストの感情吐露と涙にある。
「映画には、文法がない」と常に言い続け、自分のスタイルを厳格に守っていた小津監督が、そのスタイルを壊し、あえて表現した紀子(原節子)の感情吐露の場面が心を打つ。
それは、とみと周吉が熱海で見た夜明けの海、周吉と紀子が見た尾道の夜明けの海、その光と、この世界と人間同士の共感。
「東京物語」が家族の崩壊なら、「パリ、テキサス」は、家族の崩壊からの再生、だが、話はそう簡単に終わらない。
「パリ、テキサス」のトラヴィスとジェーン(ナスターシャ・キンスキー)はマジックミラー越しの「ピープ・ショー(のぞき見ショー)」での再会。
二人は一緒になり熱烈に愛し合い、傷つけあった過去の胸の内をトラヴィスは一方的にジェーンに長々と語る。
「パリ、テキサス」は、ヴィム・ヴェンダースの映画には珍しく主人公が、心情を吐露し、メロドラマの傾向が一番強い。
しかし、ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)にトラヴィスの顔は見えない。心は通じ合えるのに、視線は未だ共有できない二人の関係が切ない。
合わせる顔がないほど傷つけたのか?修復不可能なのか?ハンターだけ、母の元に置き去りにして、トラヴィスは一人、ヒューストンを去る。
最初のトラヴィスの視線の先を思い出す。何もないただの線路が続く道。
ヴィム・ヴェンダースは言う。
線路の先の何もない風景。
ヴィム・ヴェンダースは「どうしようもない男」を「どうしようもないまま」描く。
小津安二郎は止める事のできない「家族の崩壊」をそのまま描く。
そこに救いは無いように見える。
その心の空白が深く、どうしようもないゆえに、彼らの視線の先の光のある風景(世界)に、私は深く共感し、その光に救われる。
そもそもフィルムでもデジタルでも、光がなければ、映像は記録できず、スクリーン上にも写らず、どんな映画も存在しない。
この世界に光がなくなれば、我々は生きていけない。逆にこの世界に光がある限り生きていける。そんな当たり前の事を、映画は深く教えてくれる。
「パリ、テキサス」の翌年撮影したヴェンダース監督が、鎌倉にある小津安二郎の墓を訪ねる旅の映画「東京画」(1985)の中の笠智衆。
小津映画の役のままの温かく謙虚な人柄でヴェンダース監督を迎え、小津監督に関するインタビューに答えている。
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