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スーホの数奇な人生

初めまして。スーホです。

これからnoteを頑張って書いて行こうという気持ちを込めてちゃんと自己紹介をしていこうと思います。

最初が重要ですからね。

生まれてから大学入学までは色々ありすぎてスターウォーズくらいのスペクタクル超大作になってしまいますので省かせて頂きます。

●スーホの甘い就職活動

私は帰国子女の経験の一本足打法で都内の私立大学にAO入試で入学しました。

大学デビューする事もなく、真面目な大学生活を送る事もなく、在学中はテキトーに授業に出て、テキトーにサークル活動を楽しみ、テキトーにバイトをし、テキトーにゼミを頑張り、テキトーに過ごして気づいたら大学3年生になっていました。

大した思い出もなければ大した経験や成功体験もなく、テキトーな学生生活で養った価値観を背負って「就活」という人生の大きな選択をしようとしている自分がおかしくて、全くもって就活に身が入りませんでした。

それでも時は無常に過ぎていくもので、だんだんと4/1の就活解禁日は近づいてきました。それに合わせてESの提出やテストセンターや筆記試験などのイベントで日々忙しくなり、斜に構えてる暇はないと2月くらいから全力で就活にのぞみました。

とにかく、カッコいいしモテるし金が沢山もらえるという理由だけで総合商社と専門商社を受けました。

時間がなかった割には就職活動は上手くいき、総合商社2社から内定をもらいました。正直どちらに入社してもよかったのですが、ネットで調べて平均年収が高い方を選びました。

今思うと、英語がネイティブレベルだったのと一度だけノリで参加して完走したことのあるトライアスロンを「幼き頃からの趣味」として書いていたのがウケが良かったのかもしれません。

ちなみに、人生でトライアスロンに参加したのはその1回のみです。

今後も死ぬまで参加する事は無いと思います。

●スーホの渋い配属


そんな感じでテキトーに就活をして新卒で総合商社に入社した私は、配属面談でもテキトーなことを言って(もはや何を言ったかすら覚えていない)、なんとも微妙な消費材のトレーディングの部署に配属されました。

事業投資や官民連携の一大プロジェクトをやりたいなどと思ったことは人生で一度もなく、ゴリゴリのトレーディングの部署に配属となったことに悲観的な思いは全くと言っていいほどありませんでした。

配属されたGの構成は、50歳overの管理職1名、中間管理職1名、G付けでほぼ何もしていないおっさん1名、雑務まで色々こなす30代半ばのイケイケな先輩、お局さん1人、派遣のお姉さん1人の6人チームで、そこに増員という形で配属となりました。

30代半ばのイケイケな先輩(オードリーの春日に似ているのでここからは春日と呼ぶ)=春日が常にオーバーワーク気味だったので、私が送り込まれた様でした。

春日は馬力があって頭もいいし資料の作成も早かったですが、英語があまり得意ではなかったので英語が出来る私が投入されたんだと思います。

配属されてから最初の方は、春日の苦手な英語の電話に積極的に出たり、英語のレポートを書いたり、英語の資料を作成したりと、英語が必要となる雑務を主にやっていました。

そうして1か月が過ぎたころ、だんだんと業務内容にキャッチアップ出来る様になり、徐々に海外拠点や海外サプライヤーとのミーティング等にも参加させてもらえるようになりました。

そこでも主な役割は議事録を取ることでしたが、たまに春日の言っていることが上手く現地側に伝わっておらず、割って入って通訳をすることもありました。

それが何回か続いた結果、上長が「現地とのミーティングはもうスーホに任せよう」と言い放ったことで、春日の一部の海外とのミーティングがすべてスーホに渡されました。

それだけでなく、今まで現地にまかせっきりでうまくいっていなかった案件の現状把握とテコ入れという名目で、何度も海外出張に行かされるようになりました。

海外出張というと響きはいいですが、私の行先はインドやパキスタン、スリランカ、カザフスタンとかクソみたいな国(失礼)ばかりであった為、マイルが溜まっていくこと以外にあまり嬉しさはありませんでした。

●スーホの初めての長期海外出張

そんなこんなで1年がたち、入社2年目では炎上気味の案件をクローズさせる為にインドに長期出張(3ヶ月)を経験しました。かっこよくクローズさせると書きましたが、実際はとん挫した案件をクローズする際にGHQの誰かがその場にいないと示しがつかないので私が送られただけでした。

ただでさえ意地の悪いインド人たちに嫌味を言われながら現地の日系サプライヤーに頭を下げ続け、なぜか週1しかない休みは楽しむ余裕も環境もなく、ホテルの部屋で本社へのレポート業務を行う様な日々でした。

出張先は都会ではなかったため、外には野生動物が沢山いて、少し細い道に入れば野生の老婆が道端でうん●をしていたりして刺激的な環境でした。

信頼できるレストランはホテルの1階の中華だけで、それ以外のレストランに入ると10割の確率でおなかを壊しました。

この3ヵ月という時間は、私に2度とインドには行きたくないという強い負の気持ちを抱かせるのには十分過ぎる長さでした。

●スーホの恐怖の海外内示


長期出張から帰ってきた後はそこまで大きなイベントもなく淡々と1年半が経ち、社会人4年目の終わりに部長から呼び出されました。

「スーホ君、君は来年からインドね」

突然すぎる絶望的な通告に言葉が出ず、部長の前で30秒ほど本気でフリーズしました。

インドでのつらかった(嫌だった)記憶が走馬灯の様に短時間でフラッシュバックし、脳のキャパシティが一瞬でFULLになりました。

「あの、インドですよね?カレーの」

と念のために部長に聞くと、

「インドだよ、ガンダーラのインド」

と言われました。「ガンダーラはパキスタンだろクソ野郎」という無駄にその地域に詳しいが故に出てきた突っ込みをグッと堪え、その場で渋々承諾をしました。

●スーホの初めての婚約破棄

インド駐在という内示に絶望している理由はインドという国に行きたくないという事だけではありませんでした。

私の人生プランでは先進国駐在を拝命するエリートコースを歩み、当時婚約中だった彼女と駐在を機に入籍し、帯同で海外生活を送る予定でした。

「海外で子供が生まれたら帰国子女だね」なんて話でよく盛り上がっていましたし、彼女自身も父の仕事の都合で小さい頃にマレーシアに住んでいたので、駐妻の生活がどんなものかは良い感じにイメージしていたと思います。

そんな中でインド駐在を拝命した私の心境は絶望でした。帯同は可能でしたが、条件は週末のみ家族が住む町に帰れて、平日は田舎の拠点近くのゲストハウスに住むというものでした。

彼女は幼少期のインド旅行が軽いトラウマになっていたらしく(道端でうん●している人を見たとか、野生動物に追いかけられたとか、トイレットペーパーがなくて絶望したとか)、インドにはマジで行きたくないと事前に言っていたので、インドという国に連れて行くのも絶望的だし週末しか私が返ってこないという条件も絶望的だし、もうすべてが絶望的でした。

もうどう伝えればいいのか分からず、1週間ほど作戦会議をした結果、以下の2点で攻めようと思いました。

①給料が2倍になる
②部長から期待されてるので出世に繋がる

1週間の長考でなぜこの2点に絞ったのか?

それはこの2点くらい伝えられるメリットがなかったからです。

関ヶ原の戦いの合戦に全裸丸腰で突撃するような気持で私は彼女にインド駐在に帯同して欲しいと伝えました。

長く付き合っていたし、婚約中だし、たとえインド駐在だとしても妻はついてきてくれると信じていました。

結果は、、、





「絶対に嫌だ」

今までの人生で聞いた中で最もハッキリとしたNOでした。

当時の口論が99%再現されている私が作成したアテレコ動画を下に貼っておきますね。

ちなみに大事な事なのでもう一度言いますが、ガンダーラはパキスタンです。

こんな感じでインド駐在を伝えてからじんわりと2人の間の歪みが生まれ、どうしてもインドに帯同させたい私とどうしてもインドに帯同したくない彼女のぽこ×たて状態で、日に日にその歪は広がっていき、気付けばとても修正できないレベルになっていました。

もう2週間ほど電話もLINEもとらずに過ごしていたら、彼女から「ちょっと会って話したい」と言われ、会社の近くの喫茶店で会いました。

店について席に着くと、先について座っていた彼女に婚約破棄を言い渡されました。心の準備は出来ていたので、差し出された婚約指輪を受け取り、出来るだけ笑顔で去っていく彼女を見送りました。

ショックとインドへの憎悪で2週間程軽く不眠症になりましたが、何とか乗り越えて私はインド駐在に出発しました。

●スーホは一人でガンダーラ

インド駐在の話は思い出したくない記憶があり過ぎて思い出せる範囲内の記憶だけで書くと、とにかく空港もオフィスもレストランも男も女もみんなカレー臭がしました。

仕事もカレーのデリバリー、、、ではなく消費財のデリバリーで、まぁ日本でピッチャーをやっていた業務をインドではキャッチャー兼内野兼外野として超広範囲を守る様なモノだったので、とにかくキツかったしカレー臭かったです。

幼き頃から土日休みのゆとり教育だったのに、30近くになっていきなり週休1日になり、「明日も休みだ!」という感覚を抱かなくなり、思いっきり休日に何かを楽しむこともなかったので、唯一の休日である日曜日もただNetflixを見たり、Youtubeを見たり、Amazon Videoを見たりしてました。

休日はとにかくやることが無くて(気力もなくて)暇でした。ランニングが趣味ですが、野犬が怖いので一歩も外を走る気にはなれませんでした。

仕事はつまらない(それだけでなくインド人スタッフが仕事しないし意地悪)のにとてもヘビーで、プライベートもつまらないので月一くらいの頻度で本気で上司にインドから脱出したいと伝えていました。

リフレッシュ休暇はタイやシンガポールやマレーシアに遊びに行ったり、謎にネパールに遊びに行ったりして日本には殆ど帰りませんでした。

●スーホの歓喜の横スライド

日本から出張者が来るたびに、「スーホがインドで病みかけていてこのままではヤバいと本社で噂を流して下さい」と頼んでいた地味な活動が実を結んだのか、2年目の終わりに米国への横スライドが決まりました。

私は人生で初めて雄たけびを上げながら男泣きしました。

穴という穴から汁が出ました。

流石にそろそろ真面目な話をすると、苦しかったら苦しいとちゃんと伝えた方がいいし、嫌な時はわかるように嫌な顔をした方がいいし、無意識にハイと言わない方がストレスのない生活を送る事が出来ます。

察してちゃんになったら終わりです。あなたの事を察してあげようなんて素晴らしい気概の上司はほとんどいません。

●スーホの楽しい先進国駐在

そんなこんなで米国へ逃亡した私ですが、業務は継続して消費財のデリバリーのキャッチャー兼内野兼外野的な業務で、日本のプロ野球からアメリカのメジャーリーグに移籍した感じで、メンツは変わってもやる事もキツさもそこまで変わらなかったです。

久々の欧米の早い英語にもすぐに慣れ、仕事に慣れるのにそう時間はかからなかったです。前任が英語で苦労していた方だったので、英語が喋れるだけでも周りの米人たちからはかなりありがたがられました。

もちろん国や州が変わればリーガルマターやデリバリーの個性(文化由来、インフラ由来、気候由来、他)は異なりますが、基本的な所は一緒なのでそこまで業務は辛くなかったです。

アメリカでは運よく都市部に駐在となった為、欲しいものは一通り手に入るし、おしゃれなレストランやカフェも沢山あって、インドと比べると格段に生活の質が上がったので不満はありませんでした。

公私ともに特に大きなイベントもないまま、何不自由なく過ごして1年が過ぎたころ、私はとんでもない事実に気付きました。

「そろそろ30歳になるのに彼女すらいない」

インドの不自由な生活の中では一度も考えた事がなかった「結婚」について考え始め、30歳近くにもなって彼女すらいない自分が急に情けなく思えてきました。

●スーホの婚活 in アメリカ

私はすぐに婚活を始めました。

まずは出会いから探さないととマッチングアプリに登録しました。しかし、アメリカに住んでいるので当然アメリカ人ばかり。私はアジア人が好みなのでアジア人を必死に探すも、中々自分の好みの容姿の女性に巡り合えず、エンドレススワイプで時間を無駄にしながら生きていました。

モノは試しと、白人女性や黒人女性、容姿が好みでないアジア人女性とマッチしてデートもしてみましたが、やっぱり中々上手くいきませんでした。

そんな中、上司から言われて参加した貿易実務のセミナーで同じく駐在員としてアメリカに来ていた同い年くらいの女性と出会いました。

容姿端麗でハキハキと話す女性で、金融系でアメリカ駐在というハイスぺ女子でした。

セミナー後に若手何人かで飲みに行こうという話になり、バーに飲みに行きました。そこでの振る舞いや話し方がとても気さくで、品のある見た目とのギャップにやられました。

話の流れから独身で彼氏もいないという事はわかりましたが、「こんな女性が僕と釣り合うはずがない」と早々に諦めました。そのまま会はお開きになり、解散して帰路に着くと後ろから「すいません」と声をかけられました。

振り向くと「LINE交換しませんか?」と笑顔でこちらを見つめる彼女の姿がありました。驚きと嬉しさと戸惑いとカッコつけたい気持ちが合わさって金剛力士像の様な顔をしていたと思います。

「すいません。迷惑でしたか?」と聞く彼女に「結婚して下さい」という気持ちを必死に抑えて「あ、いいですよ」と人生で一番喜びを抑えながらLINEを交換しました。

その日からオフィスも家も近かった私たちは定期的に会うようになり、デートを重ねました。私たちが打ち解け、付き合うのに時間はかからず、1か月もしないうちに付き合いました。

「あ、もうこの人しかいない」といった感覚がお互いにあったのか、色々な事がスピーディに進んでいきました。

付き合って一か月ちょっと経ったとある休日にハンバーガーを食べながら、彼女のスマホで一緒に近くのカフェを調べようと思った際、検索履歴の一番上が「ハリーウィンストン」だったのを見た時はさすがに焦りましたが、その早さを許容できるくらいには彼女に夢中でした。

●スーホの2度目の婚約

そして、付き合って4か月目のある日、何となく将来の事を話していると彼女が「私は多分スーホさんと結婚すると思う」と言いました。

その本気か冗談かわからない一言に「こんな感じでこじらせてきたタイプなのかな」と一抹の不安を覚えつつも、次の週末には吸い込まれるようにハリーウィンストンに行っていました。

指のサイズがわからず、「いい感じの指輪があったからサイズ教えて」と匂わせMAXなラインで指のサイズを確認し、インド貯金(高いハードシップ+低い生活コストでかなりの額がありました)を切り崩して、私は150万円程の婚約指輪を買いました。

そしてその翌週、私たちが出会ったレストランで婚約指輪を渡しました。

彼女の答えは「YES」で、私は見事2度目の婚約をしました。

「今度こそ絶対にゴールインするんだ」なんて気負う気持ちは一切ないくらいに約束された華やかな未来が私には見えていました。

しかし、その1か月後、私は部長からの電話で突然の帰任を告げられました。

部長からの電話を切り「任期はまだ1年残っているのになぜ?」と半ギレで上司に詰め寄ると、デリバリーの日本部隊の内、1人が退職、1人が部署移動、1人がメンタルで休職とのことで、壮大な玉突き人事が起きていて、私もそれに巻き込まれたとのことでした。

いなくなった当事者全員がどのようなレベル感(負荷含む)で働いていて、どのような仕事をしていたかを知っていたので、事が事だけに騒いでも意味がなさそうだったので帰任の内示を受け入れました。

●スーホの2度目の婚約破棄

すぐに彼女に連絡をしたら彼女は明るく受け入れてくれました。

「まぁ、私もあと2年で帰るからね!2年だけ!」

私はホッとした半面、2年という長い年月を想像して気が重くなりました。恐らく彼女も、明るく振舞ってましたが30歳を過ぎた年齢での2年という年月に戸惑いを感じていたと思います。

帰任の内示をもらってから、コミュニケーションの量が日に日に減っていくのがわかりました。引継ぎやあいさつ回りで私が忙しかったのもありますが、それよりも先の見えない将来に対しての不安感から、お互いが少しずつ距離を取るようになった結果だと思います。

1か月程経ったある日、彼女から「今日カフェで話そう」と久々に連絡が来ました。4年前の記憶がフラッシュバックし、明確に「終わった」という感覚がありました。

久々に会った彼女はどこか疲れた顔をしていました。

いつもの明るい笑顔で「もうわかってると思うけど、お互い自由に生きよう」と伝えられました。

指輪も返してもらい、あふれる涙を堪えながら笑顔で彼女を見送りました。冷たいビル風に吹かれながら、涙目でハリーウィンストンの指輪を握りしめて家に帰りました。

私は30歳にして2度目の婚約破棄を経験しました。

一度目はインド駐在の内示をもらった事がキッカケ、二度目は日本に帰任の内示をもらった事がキッカケでした。

もう恋なんてしないなんて言ってないですが、私は31歳になった今でも絶賛独身です。

●スーホの気持ち

世の中には「海外駐在」=「勝ち組」という認識がある人が多く存在します。

駐在員は「お金を稼ぐ」ゲームにおいてはもちろん勝ち組だと思いますが、「幸福な人生を歩む」ゲームにおいて勝ち組かは甚だ疑問です。

働き過ぎで体を壊す人、単身赴任で家庭に居場所がなくなる人、家族が駐在地の環境に耐えられず辛い思いをさせてしまう人、私の様に婚期を逃して迷走してしまう人、「駐在員」と一言で言っても十人十色で色々な人生があります。

もちろん駐在経験を生かして社内で出世街道を突っ走る人、駐在経験を生かして転職してキャリアアップする人たちもいます。ただ、私の様に大したキャリアアップもせずに、人生における非常に大事な婚期を二度も逃す人もいます。

私は2度目の婚約破棄を会社の命令によって経験した事が許せず、家業を継ぐ形で、帰任内示をもらってから2か月後に総合商社を退社しました。

正直もう色々な事がどうでもよくなっていました。

●スーホの現在

私は色々揉めて家業を売却した後に少しの無職期間を謳歌し、現在は復職して外資系コンサルティングファームで働いています。こんな私を雇ってくれる会社があってよかったです。

やはり大量採用 is 正義ですね。クビを切られないように頑張ります。

今のところは上手くチームにフィットして、自分の良さというか長所を生かしながら仕事が出来ているので満足です。

今後のスーホにも期待を宜しくお願い致します。

こんなクソみたいなnoteを読んで頂きありがとうございました。

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