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根っこ

ぼくの或いはひとの根っこと言ってもいいのかもしれない。
それは何かと問われたらぼくは真っ先にひとであると答えると思う。

今のぼくがあることは紛れもなくひとがいたからで、生まれたその瞬間から死ぬそのときまでずっと誰かがいてくれるのだと思う。

孤独なぼくらが、孤独な植物のように、永遠に分かり合えることのない他者との巡り会いが根だと思うのだ。

せっかく根についてお題を頂いたので、取り上げない訳にはいかないと思ったことばがあったので紹介させてください。

「根を持つこと、それは魂のもっとも切実な欲求であり、もっとも無視されてきた欲求である。」(『根を持つこと』岩波文庫 64頁)

フランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユのことばである。
因みに、取り上げておいて申し訳ないのだが、ぼくはこの本を読み切れていない。最中と言えれば格好がつくが、多分数年のうちは読むことはないと思う。兎に角難しかった。これを理解するにはフランスの歴史や彼女の生い立ち、哲学の素養が余りにもなさすぎた。

それでもこのことばはずっとぼくの中にずっと残っている。

「根を持つこと」は大切なことなのだ。
「根を持つこと」をするためには職業・文化・地域を通じてつまりはひとを通して、自分の価値がはっきりしている必要がある。

その上で絶対に大事にしていることがある。
それは経験・体験・実感に基づいて、表面的な知識・感情の上に乗っていない生活を心がけることである。

あなたの根は自身の経験に基づいているだろうか、テレビやネットで得た情報に依存していないだろうか、便利さ故に使っているネットショッピングは本来得られる経験や実感を犠牲にはしていないだろうか。AIやChatGPT、それによって得られた経験を実体験と勘違いしていないだろうか。

タイムパフォーマンスが重要視される現代において、時間はひととのか代わりを根を伸ばすことを阻害してしまっているような気がする。ぼくはそれを悪だとは思わない。
ただ、少し寂しいのだ。

如何なる時代においてもひとは皆孤独だから。

荒涼たる砂漠にも植物は芽吹くものである。
やがてその地下には強靭な根が伸ばし乾燥した大地に僅かな水を求めている。時が経つにつれその根は長く伸び、深く広がり地中の奥底に届く恵を引き寄せ、その生命を支える。

ひともそうだ。
親ガチャだとか、毒親だとか、やたら耳にする世の中で、誰しも恵まれた環境に生まれる訳ではないし、何を恵まれていると捉えるかはひとそれぞれなので、そんな根っこの話をしたって意味がない。大人だって今置かれている環境がどんなに不遇だと感じようがそう簡単に変えられるものではない。
だからこそ、
ゆっくりゆっくり、のびのびと、歪でもいいのでぐにぐにゃと根を伸ばすのである。その先で巡り会うひととの出会いがそのひとを支える立派な根になるのだ。

今週も読んでくれてありがとうございます。
お題をくださったissaさんが9/8から「根っこ展」という個展を開くそうです。
ぐにゃっとしてたり、力強かったり、地を張り巡らせる根っこ達のストーリーだそうです。
是非行ってみてください。

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