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歩き始めて今日まで。2019年より少し前から、僕はライターとしての歩みを始めていたらしかった。

今年は、長かった。

2019年を振り返っていると、ふと、僕のライターとしての活動の始まりが、実は2017年にあることを思い出した。

物流マンとして仕事をしながら、ライターになろうと思った僕の心境の変化、行動の変化について、当時を思い出しながら、つらつらと書いてみる。


書いて伝える仕事で生きていきたい。

物流企業で現場管理をしていた僕の頭にそんなぼんやりとした気持ちが湧いていた。実をいうと、これは幼少期から心の奥底に微かに生まれていた気持ちだったが、「そうして生きていけるのは一部の人間だけで、自分にはできないだろう」と、どこかで決めつけていたのかもしれない。

当時の僕は「書く」という漠然としたイメージしかなく、ライターという職業は知らなかったのだが、そうとはいえ、小説家を目指していたわけでもなかった。小説が書きたい気持ちもあったが、何か「自分の言葉」で「現実」を書き留め「誰かに伝える」ことができたら。そんな思いがあった。ジャーナリストに近いイメージだったのかもしれない。


新卒で大手物流企業に入り、現場でオペレーションマネージャーとして仕事をしていた僕は、そんな、うっすらとした過去の気持ちを想起していた。

「どうすれば書くことで生きていけるんだろう」

そのときには僕のなかの漠然とした「書く仕事」は具体的な「ライター」として少しずつ鮮明化していた。そこで思った。

「まずは“ライター”と名乗ってしまえば、もうライターだ」

ライターには必要な資格がない。何かジャンルに特化するならもちろん知識が必要だが、「書いたことのない人がライターと名乗ってはいけない」という法律はない。

そこで僕は、まず Twitterでライターと名乗ることから始めた。学生時代につくったミスチルの情報収集・人脈づくり専用のツイッターアカウントを、ライターとしてのアカウントに変えた。名前は、なんとなく本名を避けて、僕が学生時代に呼ばれていたあだ名である「きんとー」(高校時代の先輩が”金藤”を誤読したことで広まったあだ名)に変えた。

プロフィールには、自分がライターであり、書くことが好きで、こんなジャンルの内容が書けます、お仕事はこちらに、といったことを記載した。言わずもがな、連絡なんて1件も来なかった。

とはいえ、自分に力があるかないかは関係なく、「まず名乗る」ことは重要だと思う。僕は「ライター」と名乗り始めてから、自分がその道で生きる人生を歩み始めたのだという自覚が芽生えた。

まだ仕事なんて1件もなかったけど、駆け出しとはいえプロ意識を持つきっかけになり、ライターとして食べていくための情報収集や活動も以前より積極的になった。


そんなとき、どこで見つけたのかはハッキリ覚えていないが、2017年12月2日、僕は千葉県いすみ市で行われたライター交流会に行った。有限会社ノオトと、フリーライターの佐々木ゴウさんが合同で主催したイベントだ。

1泊2日の密度濃い時間だった。ライターとしての入り口、実際にライターと活躍している登壇者の宮脇さんや佐々木ゴウさんがどうやって仕事をしてきたのかなどを、こと細かに話してくれた。


同じく2017年12月中旬、メディアミートアップなるものに参加した。ここでちょっとしたショックを受けた。

数多くのメディア企業が参加したそのイベントでは、帰り際に参加者と名刺交換する機会があったが、僕はまるで相手にされなかった。

当時、僕は「ライター」と名乗ってはいたものの、名刺を持っていなかった。「どんな形であれ名刺を渡さなければ覚えてもらえない」と思って渡していた前職の物流企業の名刺は逆効果だった。今思えば、白紙の型紙に手書きで名前とメールアドレスを書いたほうがまだよかったのかもしれない。

「独立したばかりのライターで、まだ名刺がないのですが、名前だけでも覚えてください」

覚えてもらえるはずがなかった。そもそも名前だけ渡して何の意味があるのか。僕の素性を知らずに「あのー、ご挨拶させてください!」と意気揚々として駆け寄ってきた人も、僕の実績のなさと渡した名刺を見て、「ありがとうございます。どこかでご縁がありましたら」と愛想笑いをして、本当に挨拶だけでサーッと引いていった。

「名乗ればライターだ。だけど、僕はまだ何もしていないんだ」そう痛感した。

まあ、当たり前の話。とはいえ悔しかったのを覚えている。


2018年に入り、「3月で会社を辞めよう」と思っていたものの上司に言うことができずに繁忙期を迎え、一歩踏み出すのをズルズルと先延ばしにしていた。

そうしていると、Twitterである投稿を見た。


2018年5月、週末フリーランス養成講座。2017年12月に行ったのと同じく、千葉県いすみ市で行われた。僕は「ライターとしての稼ぎ方」が知りたくて、これに参加した。うってつけの機会だった。

ここは、会社員をしているがライターとして独立したい人、副業で稼ぎたい人たちが集まっていた。名前は“講座”だが、多くのセミナーのようにただ学んで帰る場所ではなく、実績が得られる場所だった。だから案内ページには「参加費が実質無料になる(かも)」と書かれていた。

僕はその日中に無料になるとはいかなかったものの、当日中にライティング案件を1つ獲得することができた。それが、僕が副業ライターとして獲得した初めての仕事だった。

ここでの1泊2日は、僕に「独立してもまず死なない」ことを実感させた。


ライターとして仕事を得る、自分で書いて仕事ができる、その実感を得て帰路についた僕は、なんだか魔法が使えるようになったような気持ちだった。

言葉は、人を生かすことも殺すこともできる。社会を良くも悪くも動かす。それだけ強い力がある。そう幼少時代から教えられて生きてきたからこそ、僕は言葉の力を強く信じていた。

そうしてクラウドソーシングを使って、ほんの少しだけ副業的にライティングをしていた僕は、ある日Twitterでこんな投稿を見つけた。

願ってもない機会だった。言葉や文章についていつも深く学びになる発信をされており、ダイヤモンド社の編集者だった竹村俊助さんが次世代の編集者・ライターを育てるというのだ。

僕はちょうど条件にある26歳で、応募できるギリギリの年齢だった。「これを逃す手は絶対にない」と思い、見た瞬間にすぐに応募した。ほぼ実績はないが、どうしても挑戦したい思いを本音でそのまま書いた。

すると「一度お会いしてご相談できればと思います。(相性やお互いの条件もあると思うので…。)」とメールが。会いに行って数日後に、WORDS塾のメンバーとして加えていただけることになった。


僕は当時、ちょうど退職の旨を上司に伝えて間もない時期。9月に退職の予定だったのが、現場の都合があり11月予定に延びたところだった。「1月のボーナスをもらってから辞めればいいのに」と言われたこともあったが、「(あの竹村さんのもとで活動ができることになったのに、退職が来年に延びては下ろされてしまうかもしれない)」と危惧し、年内の退職を決意していた。

というのも、WORDS塾は、まずは8月〜12月までを1期とすることに決まっていたのだ。一緒に入ったメンバーは、すでにフリーランスで活躍していたライターが3人と、書店でアルバイトをしていた本の好きな大学生が1人。「退職が先延ばしになるほど、僕は置いていかれてしまう」と勝手にちょっとした焦燥感に駆られていた。

そうして結局、11月末で退職した。


WORDSでは、10万部売れる書籍をつくるための企画を考える「10万部会議」や、文章のフィードバック、実践的な編集のアドバイス、竹村さんに所縁のあるゲストをお呼びした講座も行なってくださった。竹村さん自身、「教えるの苦手」とおっしゃっていたが、本当に実のある学び多い時間だった。

ここから先は、前にも記事に書いたとおりだ。

会社を辞めたはいいものの、お金を稼ぐために派遣のアルバイトをしたり、Amazonの配達をしたりしながら2019年を迎え、気になっていたオンラインサロン「箕輪編集室」と「前田デザイン室」に入り、とにかくライターとしての実績をつくるためにできる挑戦を重ねていった。

そして2019年11月下旬、目減りしていた仕事を獲得しようと、なんとなくWantedlyを見ていた僕はある募集を見つけた。NewsPicksが編集部での学生インターンを募集していたのだ。

兼ねてよりNewsPicksの編集部で仕事がしたいと思っていた僕は、タイトルに「学生」とはあったものの、一応、詳しい条件を見てみた。すると「学生」が必須とはされていない。記載されたいくつかの条件に、僕は当てはまっていた。

「応募するしかない」と、当日中に課題とアンケートを送った。後日、面接をとのことで、NewsPicksの六本木オフィスへ。結婚式以外で着ることのなかったスーツをかなり久しぶりに着た。

そして現在、12月23日からNewsPicksで仕事をさせていただいている。最初はインターンでも、「そこで仕事ができる」ことに意味を感じていたので形式は何でもいいと思っていたが、僕がフリーライターとして仕事をし、箕輪編集室などで経験を積んできたことからか、結果的にはインターンではなく業務委託契約で仕事ができることとなった。まだまだ序の口だが、まずはとにかく慣れるため、必死で仕事を覚えている。

と、ここまで僕がどんなふうに仕事をしてきたのか、ざっとまとめてみた。

去年の僕では、とても想像できなかったことをしてきたし、到底想像のつかなかった場所に今いる。

あまり偉そうなことは言えないけど、環境は自分でつくるものだと身体知で学んだ。応援してくださった方々や、お仕事をくださった方々がいたから僕があるのだと思うと、いろんな人の顔が浮かび、足を向けては寝られないなと思う。


2019年、長かった。

2020年、きっと、もっと長い。



ライター 金藤 良秀(かねふじ よしひで)


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