自分というフィルター | 同じ現実、違う世界
こんにちは。デッサンって好きでしたか?
私は学生時代は図工や美術が大好きな少年でした。
デッサンという行為を通じて見た世界は、私にとって思いもよらない細部に溢れていました。実はこんなカタチだったんだと。
デッサンのように、切り出し方によっては同じ事象でも違うものに見える事ってありませんか?
ということで、このnoteでは、
見え方の違いを生む思考プロセス
=自分というフィルター
と定義し、様々な自分というフィルターについて今一度考えてみることにしました。
その1) そもそも見えてない
ここ数日、生後6か月の我が息子はやたら自分の足をしゃぶるようになりました。妻曰く、足を認識したとのことです。真相はわかりませんが、「確かに」と納得してしまいました。
存在はしていても認識できない事ってあります。数週間前まで我が息子にとって足という概念そのものがなかったのかもしれません。
《まとめ》
自分というフィルター
=見えないものは存在しない
その2) 感受性の違い
雨の日が多いと部屋干しになりがちです。そんな秋雨の時期ですが、私には生乾き臭がわかりません。妻は感度良好で、いつもチェックしてもらってます。
嗅覚細胞の数などによって臭いの感じ方は違います。
《まとめ》
自分というフィルター
=物事に対する感受性には個人差がある
その3) 考え方の違い
小学生の時、弟はお小遣いについてこう言いました。
「あと80円で100円になる」
要は、20円しか持っていないのです。
ポジティブ思考だと、スタートではなくゴールを基準に物事を捉えます。
《まとめ》
自分というフィルター
=考える軸は1つとは限らない
その4) 記憶との結びつき方の違い
私は麦わら帽子を見ると切ない記憶が甦ります。
小学校のプールの授業。
プールサイドに麦わら帽子を見つけ、おもむろにそれを被り、そのまま茶目っ気たっぷりにシャワーを浴びました。当然、周りの友達は大爆笑。
その後に別の先生の私物と判明し、大説教です。笑
同じ帽子でも、思い出によって写り方は様々です。
《まとめ》
自分というフィルター
=物事と記憶は結びつく
その5) 主張が生まれる
【我が家のお風呂タイム】
我が息子のお風呂は、風呂用マットの上に寝かせる事から始まります。日を追うにつれて成長を実感します。
最初はマットにすっぽり入る
↓
次第にマットから足が出る
↓
そのうちお尻がはみ出る
お風呂の時間に必ず思い出すエピソードがあります。(ここからは真面目です)
【おとなになれなかった弟たちに…】
小学校の国語の授業で知った『おとなになれなかった弟たちに…(米倉斉加年)』です。
終戦の半月前に栄養失調で亡くなったまだ赤ん坊の弟を棺桶に入れるシーンです。
棺桶が小さすぎて亡骸が収まらず、弟はほとんど乳を飲めなかったのに、大きくなっていた事に気づきます。そして気丈だった母が初めて涙を流すんです。
【戦争反対!】
お風呂で複雑な心境になります。何気ない日常に感謝するとともに、憲法9条改正に反対する思いは日に日に強くなります。
《まとめ》
自分というフィルター
=日々繰り返す日常が思いを強くする
さいごに
今回思いついたフィルターをまとめるとこんな感じでしょうか。
自分というフィルター
1)そもそも見えてない
2)感受性が違う
3)考え方が違う
4)記憶との結びつき方が違う
自分というフィルターを通した結果
5)主張が生まれる
我々は同じ現実を共有しつつも、全く異なる世界を生きているのかもしれません。
そういった意味でも、事実と意見は分けて伝える事って大事な気がしてます。それではまた。
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