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SS【思い出】#シロクマ文芸部

小牧幸助さんの企画「朧月」に参加させていただきます☆

お題「朧月」から始まる物語

【思い出】(1188文字)


 朧月だったことを覚えている。
 ぼくの眼鏡が曇っているのかと思ったがそうではなかった。
 君が言ったんだ。
 今夜は朧月よ、眼鏡なんか拭いても変わらないわよ、と。

 あれから三十年。
 人生でたった一人の恋人の記憶。ぼくみたいな男に一度でもそんな経験があったことは僥倖と言えるだろう。だからこそ、昔の人が旅の写真屋に撮らせた一枚の家族写真を家宝にしたみたいに、ぼくもこの思い出を大切にしている。
 思い出は、少ない方が価値があるのかもしれない。

 今夜思い出がよみがえったのは、帰宅途中に朧月を見たからだ。
 道行く人のほとんどは、俯き加減で帰宅を急ぐかスマホを見ている。でも一人暮らしのぼくは家で待つ人もいないしSNSにも興味がないから、時折夜空を見上げるのだ。
 足を止めて空を見上げている定年間近の冴えない男は、他者からは人生に絶望しているように見えるかもしれない。
 本人は、朧月のようにふんわりと幸せだとしても。

 
 帰宅してカーテンを閉めようとした時も、まだ空には朧月が見えた。
 ぼくはめずらしく遊び心を起こし、休日だけと決めている缶ビールを片手にベランダに出た。ぼくの遊び心なんてこの程度だ。
 しかし飲む予定のなかった木曜日の缶ビールは、思った以上にぼくを酔わせたらしい。

 
 ……いつの間にか隣に君が立っている。
 これは夢なんだろうな。
 安い缶ビールが見せている夢。あるいは朧月が、か。

「久しぶりね」
「三十年だよ」
「元気だった?」
「大病もせず、事故にも合わず」
「あなたらしいわね」
「つまらないだろ」

 君はちいさく微笑んだ。端正な横顔、くっきりとした口角。

「…つまらないのは、わたしよ」
「そんなことはない」
「あなたの良さがわからなかった」
「ぼくには取り立てて良い所なんてないよ」
「あなたと一緒に年をとればよかった」

 ぼくはそれには答えず、最後の一口を飲み干して缶をクシャリと握りつぶした。ヘコン、という間抜けな音がした。

 ……隣を見ると、君はもういなかった。
 朧月は完全に雲に隠れてしまっている。
 夢の時間が終わったのだ。

 
 君がもし、ぼくとずっと一緒にいたら…
 ぼくは首を振る。
 ぼくのたったひとつの宝物みたいな思い出は、雲に隠れた朧月みたいに消えてしまったことだろう。そうなるくらいなら、ぼくはやはり一人で生きる人生を選ぶ。
 意気地なしのぼく。

 あの人を好きになったの、と言った君は、ぼくに引き留められたかったのかもしれない。でもぼくは引き留めなかった。
 その時に思い出していたのは、朧月だ。

 今夜は朧月よ、眼鏡なんか拭いても変わらないわよ、と君は言いながら、ぼくの眼鏡を取り上げてハァッと息を吹きかけると、曇った眼鏡を素早くぼくの顔にかけた。
 その瞬間… ぼくの唇に、柔らかく温かいものが触れた。

 こんな思い出だけを携えて三十年も生きてきたなんて、やはり他者からは人生に絶望しているように見えるかもしれない。

 本人は、朧月のようにふんわりと幸せだとしても。


おわり


© 2024/3/17 ikue.m

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