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返す刀を持つこと

REDChair」で取り上げられた、美輪明宏さんのインタビューをよく見ています。

印象的だったのは「批難されても返す刀を持っていた」というお話でした。
「じゃああんたは何なの?」「何があるの?」「どんな才能があるの?」「なんぼのもんなの?」「給料いくら稼いでるの?」と、批難していた人に聞き返していたといいます。
個人的には「何者でもないくせに」と容赦なく切り捨てる美輪さんが、すごく恐ろしかったです。

ですが私は、この恐ろしさに共感を覚えました。
同じでなければならないという問いに対して、真っ向から「あなたは何者なの?」と疑問を呈しているからです。

3歳から5歳の頃、私はとある小学校へ連れて行かれました。本来通うはずのない学区にあった学校でした。
そこには立派なままごとセットがいっぱいあり、先生方もみんな優しく接してくださりました。そして、一人で夢中になって遊んでいた記憶があります。

なぜ他学区の小学校に未就学児が通っていたのか―それは「ことばの教室」が行われていたからでした。

母によると「保育園で喋らないから心配になって使うことにした」のだそうです。
確かに、個人的なご縁で小学校に遊びに行くことってなかなかないですし、あってもせいぜい兄弟やいとこ絡みでしょう。

実際に受けたプログラムは覚えていないのですが、あそこへ行くと心の底から楽しい時間を過ごすことができました。
友達がほぼいなかった私にとって、そこはある意味一番落ち着ける場所だったのかもしれません。

成長してもやっぱり私は変わり者でした。
小学校ではいじめられ、中学校では陰口と友達(と思っていた人たち)に搾取され、家庭は酒乱の父親に怯えて祖父母の元へ身を寄せて…美輪さんみたいに「最初から人は違って当たり前」というのを理解するまでかなりの時間を要しました。
彼らが私をいびるのは「違う私を矯正させるため」だから。どんなに嫌な思いをしても違っている自分が良くないから。例え罵声を浴びられても、加害相手が「やってない」って言い張られても、提出した計算ドリルを担任から一ヶ月間返されなくても―正直に申し出ても私が不利になることばかりで、気づけば我慢して耐えることを覚えてしまいました。

高校・大学時代に「返す刀」を手に入れましたが、案の定使い方はわからなかったです。それどころか、社会に出たら自ら封印するようになっていました。
そうしたらまたしてもマイナスの忍耐をしなければならなくなりました。

私は今、読みと書きをしています。
趣味や興味というレベルではありません。生きるためにやっています。

返す刀は時に人を傷つけます。しかし、一番やってはいけないのは自分で自分のプライドを傷つけることです。
無駄なプライドは癌なので切断したほうが身のためですが、誇りを自傷してしまえばそりゃ平気で酷いことをするわけだよなと思うわけです。
ですが、魂レベルのプライドを他人に傷つけられたら思いっきり反撃してください。「あんたこそ何者なんだ、自分で自分を語れないやつが知った口で私を語るな」と言い切ってください。
※それで収まってくれれば自衛成功ですが、反撃されたらそれこそもう争いに発展します。そうなったら距離を置きましょう。相容れない相手に対する唯一の礼儀です。

あなたの魂は何から出来ていますか?

あなたはnoteここで何をしたいですか?

お金稼ぎですか?
人脈づくりですか?
承認欲求のチャージですか?
自己表現ですか?

それらはあなたにとってどのような価値があるのでしょうか?

そしてあなたは一体何者でしょうか?

哲学的かつ非常に難しい問いになりましたが、人間の本質はそこにあるような気がします。

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