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豊の国(大分)八幡神とグローバリスト

さっしーも大分出身

大分県というと、どういう印象を持たれるだろうか?

九州にある県で、「別府温泉」や「中津からあげ」が有名とは知っていても、県全体のイメージとしては、今ひとつ湧いてこないのではないだろうか。

ブランド総合研究所の、都道府県「魅力度ランキング」によれば、大分は宮崎とほぼ同じで、順位は20番台前半、日本全国のちょうど真ん中ぐらい。他方、同研究所の「幸福度ランキング」では、首位を競う宮崎、沖縄ほどでないにしても、昨年3位、今年9位と悪くはない。この調査から見ると、全国の中で大分は目立たない存在かもしれないが、地元の人は故郷に愛着を持っていることがわかる。

実は、大分出身の著名人は意外に多い。任意に年齢順で名前(敬称略)を挙げると、元首相の村山富市、建築家の磯崎新、キャノン会長の御手洗冨士夫、NHK会長の前田晃伸がいる。また、フォークシンガーの南こうせつや伊勢正三、俳優の深津絵里、福岡市長の高島宗一郎、そして、歌手の指原莉乃も大分出身である。

あえて、これらの方々から共通項を引き出すならば、個性的で、発信力があり、独特の存在感がある、と感じるがいかがだろうか。ただ、こうした著名人と大分のイメージとが結びついているとは思えない。

「いいちこ」だけではない

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もう少し、大分の自分探しをしてみよう。近年、大分発で全国的に有名な物産は少なくない。

まずは、お酒でいうと大分の麦焼酎は有名だ。「いいちこ」や「吉四六」、「二階堂」のブランドは親しまれて、堂々の存在感を出している。
また、「関あじ」、「関さば」、「城下かれい」、「臼杵ふぐ」なども、高級食材として日本料理店では人気のメニューだ。
そして、大分の「乾しいたけ」は日本一の生産量を誇り、大分特産の柑橘「カボス」も全国に広まりつつある。

こうしたブランド商品のお陰で、大分は親しみやすさや高級感、特別感を消費者から感じてもらえているかも知れない。

参考のために説明すると、これらの大分ブランドの躍進は、恐らく平松守彦前大分県知事の時代(1979-2003)からではないかと思う。有名な話だが、前知事は自らセールスマンと称して、同級生である当時の日本銀行総裁の三重野康氏とも連れだって、東京の日本料理店に麦焼酎やカボスを紹介して回ったようだ。

尚、平松前知事は、在任時に自身が大分のブランドを体現しており、本稿の最後に紹介したいと思う。

平安時代のプロジェクション・マッピング

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さて、前置きが長くなったが、今回、梅雨時に大分を訪れた。短い旅だが、大分の地の特色には何があるのだろうか、ということを探ってみたかったからだ。そして、そのヒントを得るために宇佐市にある大分県立歴史博物館と、大分市にある大分市歴史資料館を見学した。

最初の訪問地は宇佐だ。博多から宇佐駅まで、JR日豊線の特急で、約1時間40分と近い。

大分県立歴史博物館は、宇佐神宮近くにある。駅からタクシーで梅雨空の下、田んぼの中を通って向かった。

はじめに、博物館の全体的な印象で言うと、これまで訪れた他県の博物館とは違い、博物館が県全体の歴史ではなく、宇佐や国東半島を中心とした地域の歴史を対象としており、また、テーマが政治ではなく、信仰とくらし、仏教文化、宇佐八幡が中心であることは意外だった。この地の人は、農耕と結びついた古からの祈りや宗教を大切にしてきた、博物館側はそのことを見学者に伝えたいと感じた次第である。

館内には、「富貴寺大堂」と「熊野摩崖仏」の立派な実物大模型があり、その模型に向けてちょうどプロジェクション・マッピングが上映されており、思わぬCGによる往時の臨場体験を楽しむことができた。

福山雅治のCMにも出た

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富貴寺大堂(阿弥陀堂)は、2014年、テレビのコマーシャルで度々放映されたので、記憶にある方は多いかもしれない。お堂を背に黄葉のイチョウが舞う中、福山雅治がプレミアムビールを宣伝するあのCMである。

富貴寺は、718年に、宇佐神宮大宮司の氏寺として創建されたとされる。建物は九州最古の木造建築物として国宝になっており、お堂は日本三大阿弥陀堂のひとつで、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並び称されている。

この富貴寺は、九州の東端、国東(くにさき)半島の山稜に広がる、六郷満山と呼ばれる65か所の寺院群の一角を占めている。元々、この地では、宇佐神宮の八幡神が菩薩となり、神仏習合の信仰が広まったという。そして、平安時代の後期に、国東半島は密教、山岳仏教の興隆期を迎えたようだ。今でも31ヶ所ある霊場巡りが行われている。

プロジェクション・マッピングでは、往時の人々が富貴寺を前に行き交う姿が生き生きと極彩色で描かれており、映像は想像力を掻き立ててくれる。平安時代に極楽浄土を求めた人々の祈りに思いを致すことができる。

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摩崖仏のメッカ

そして、国東半島の摩崖仏を背にしたプロジェクション・マッピングも堪能した。

大分では、国東半島や臼杵を中心に摩崖仏と称される石仏が数多くある。日本全国の摩崖仏の6割から7割がこちらに集中しているといわれ、石仏の数は四百体以上にもなる。この地域の山あいには阿蘇の火山灰が堆積してできた岩層があり、石仏を彫るのに適していたことも摩崖仏が多い理由の一つのようだ。摩崖仏の始まりはこの地に天台宗の山岳仏教が発展した平安時代から鎌倉時代に遡るという。熊野摩崖仏には不動明王と大日如来が彫られており、修験者たちの信仰を集めたとみられている。

尚、このプロジェクション・マッピングの上映は来年3月まで行われているようだ。古代の人の風景が目の前に浮かび上がるので必見である。

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宇佐神宮のご神託

さて、国東半島の北の付け根には宇佐神宮が鎮座する。

宇佐神宮は、日本全国に4万余社あるという八幡神(はちまんしん)の総本宮である。
571年、宇佐の地に八幡神が示顕したとされ、725年に、神宮の社殿が創建され、応神天皇がご祭神として祀られている。

恐らく、歴史的には、大分発で全国的に一番の影響力を持ったのは宇佐神宮ではないかと思う。少し、この神宮の歴史を振り返りたい。

八幡神とは、古代、渡来人の農業神として祀られたのが始まりであり、その後、八幡宮の荘園の鎮守として祀られたようだ。やがて、八幡神は地域から中央へと信仰を広げるようになる。

宇佐神宮と天皇家、朝廷との接点は、720年、八幡神が南九州の隼人の乱鎮圧で守護神となったこと、また、745年、奈良東大寺の大仏建立を援助したことが始まりとされる。このことで、宇佐八幡神は朝廷から信頼を得て国家の守護神としての地位を与えられるようになる。

宇佐神宮の特色は、何よりも朝廷に神託を告げるという点にあった。天皇は国家の一大事を判断するうえで、勅使を送り、神託を宇佐八幡に求めたようだ。その回数は、鎌倉時代の末期まで続き、二百数十回に及んだという。今でも宇佐には当時の勅使が通った道が勅使街道として残されている。

宇佐神宮と朝廷との、歴史上の大きな出来事としては、勅使の和気清麻呂が宇佐八幡の神託を告げ、天皇の地位を伺おうとする僧侶、道鏡の野望を封じたことが挙げられるだろう。

宇佐神宮は天皇家の守護のために、石清水八幡宮の創建(859年)を託宣している。また、八幡神は清和源氏の守護神となり、鎌倉に鶴岡八幡宮が創建(1063年)された。そして、鎌倉時代に八幡神は武士が地頭となった各地の荘園で祀られ、全国に広がったようだ。

宇佐八幡神が、古代から、宮廷、武家に対しても大きな影響力を持っていたことが想像できる。

なぜ、宇佐神宮はそれほどの力を持ち続けたのだろうか、先に挙げた神託にその秘密があるようだ。八幡宮には、巫女がおり、宇佐から京へ、輿に乗って神託を告げに向かったという。
更に、八幡宮は一時期、九州の荘園の三分の一を所有したといわれており、経済的基盤があったこともその理由にあげられる。

ちなみに、小説家の司馬遼太郎は、宮廷に神託を告げたのは巫女であり、恐らく政治的能力もあり、美人であったに違いないと推察している。もし、古の時代に、さっしーのような巫女が神のお告げをした場合、宮廷の中での影響力については軽く察しがつくだろう。

尚、宇佐八幡は、古来、八幡大菩薩とも呼ばれており、神仏習合を旨としている。隼人の乱の制圧に向かった八幡神が仏教に安らぎを求めたと伝えられ、神宮では、今も、神官と僧侶が共に祭礼を行っているようだ。

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補足ながら、この宇佐神宮の祖宮ともいわれるのが中津市にある薦神社である。中津や宇佐地域は古代から渡来人が稲作技術を持って入り、豊かな穀倉地帯となっていた。また、土地の有力者の信仰により、7世紀末までには、数多く寺院ができ、仏教が定着していたという。ちなみに、宇佐と中津を含む、九州の東北部は「豊の国」と呼ばれており、「豊」の名称は豊富な農産物に由来すると『豊後国風土記』では伝えられている。

6年に一度、宇佐神宮から、国東半島、中津の薦神社までを練り歩く神事、行幸会が行われている。また、毎年秋には、放生会という、隼人の乱制圧の際の霊を鎮める行事が面々と続いている。

古代には、宇佐八幡のご神体を奉じて、大友旅人率いる朝廷軍が南九州に向かった。八幡宮は、九州全体の支配と国家護持にも関係していたようだ。

豊後の地 大友宗麟

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さて、次に向かったのは、大分市にある歴史資料博物館である。主として、大友宗麟のことについて知りたく訪れた。博物館は、8世紀、仏教による国家鎮護のために建立された豊後国分寺の跡地の近くにある。

大友氏は、鎌倉時代から守護職として豊後に任ぜられ、約400年に亘り、豊後の地の支配者であり続けた。キリシタン大名としても有名な大友宗麟(1530-1587)は、大友氏の21代目に当たり、1550年、20歳の時に当主になっている。

豊後府内、現在の大分市内に、大友氏はその居を構えており、府内には城もあり、豊後の行政や経済の中心地となっていた。尚、歴史上、豊後は、現在の大分県の東南部を指し、豊前は大分県の北西部と現在の福岡県北九州市の一部分を指している。

宗麟は、20代から、積極的に支配領域を広げ、彼が一番の隆盛を極めたときには、豊後、豊前、肥前、肥後、筑前、筑後の六藩と、日向、伊予の過半を支配するまでに至ったようだ。宗麟は、朝鮮や明とも積極的な交易に乗り出し財を築き、それを基に領土を広げていったようである。そして、何よりも、宗麟はキリスト教を保護し、南蛮貿易に乗り出したことが、隆盛の一番の背景であったと思われる。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルは1549年に鹿児島に到着し、長崎や山口で布教活動を行っていた。その後、1551年に、宗麟から豊後に招かれ、キリスト教の布教を許可されている。また、豊後の海岸では、その頃から、頻繁にポルトガル船が来航しており、ポルトガルは、海禁政策を採っていた中国と日本との中継ぎ貿易で利益を上げていたようだ。日本は、主に銀を輸出し、中国からは生糸を輸入していた。宗麟はこうした貿易の利権に関わり、ポルトガルとの交易を独占しようとしていたようだ。

キリスト教が保護されて以降、当時の大分市内には、教会や学校が立ち、西洋医療の病院や育児院が建てられ、西洋音楽や演劇も紹介され、キリシタン文化が花開いたようだ。
1587年に、豊後には、約5万人の信徒がいたとされており、当時の日本全国の信者数と見られる約30万人の17%ほどを占めていたようだ。

長い歴史の中では、わずか、30年から40年の期間であったかもしれないが、豊後府内は、長崎よりも早くにキリスト教が普及し、貿易も行われており、当時、堺と並ぶ国際貿易都市として、南蛮文化が空前の賑わいを見せていたようだ。

宗麟は、元々は禅宗に帰依していたが、1578年、48歳の時に、キリスト教の洗礼を受ける。当時のヨーロッパ各地で、イエズス会を通じて、豊後や宗麟の名前は伝えられており、宗麟は、当時、日本人として、最も有名な人物であり、豊後も、もっとも有名な地名であったかもしれない。今に残るイエズス会の文書や地図がそれを物語っている。

しかし、九州全土の制圧を目論んだ宗麟は、1578年、日向遠征で、島津氏との耳川の戦に敗れ、勢いに衰えが見え始める。また、1586年には、島津氏の侵攻で、大友氏は敗れ、豊後府内は廃塵に帰した。そして、宗麟は、豊臣秀吉の支援を仰ぐことになる。秀吉の力で、島津氏を押し返すことはできたものの、宗麟の後を継いだ息子は、文禄慶長の役で失態を演じ秀吉から改易され、豊後の大友家は途絶えることになった。1587年の秀吉による九州平定の年に、宗麟は死去している。秀吉のバテレン追放令は、その後、まもなくして九州で発布された。

戦国時代という激動の時代に、豊後の大友宗麟は一時代を築き、大分市は国際貿易都市として栄えた。キリスト教を保護した宗麟は、当時、グローバルな視点を持った大名だったことが分かる。歴史にイフはないが、もし、大友家が、江戸時代も続いたとし、キリスト教も制限はあっても許容されていたとしたら、豊後が明治の時代に果たせた役割も小さくなかったと思われるがどうだろうか。

平松守彦というリーダー

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最後に、はじめに触れた、大分のブランドを全国区にすることに貢献した、平松守彦(1924-2016)前知事の話に移りたいと思う。

まずは、プロフィールから紹介したい。

平松(以下、敬称略)は1934年、大分市に生まれた。九州で教育を受け、学徒動員で、千島列島の択捉島での従軍となるが、ソ連侵攻直前に北海道に戻り終戦を迎えている。その後、東京大学を出て、通産省に就職し、後に有名な次官となる佐橋滋の目に留まり、順調にキャリアを重ねる。産業立地や公害問題、コンピューター産業の育成にも携わり、審議官へと昇格、民間企業のトップとも人脈を広げていった。そうした中、故郷の大分から声がかかり、一念発起して帰郷し、副知事に就任する。その後、選挙で知事に当選し、本人の弁では「一身にして二生を経る」が如くの人生が始まった。

そして、県知事に着任早々から「一村一品運動」の理念を掲げ、今でいう地域おこしを始め、県全体を巻き込んでいく。「一村一品運動」とは、県内の市町村ごとに、独自の商品を作り、生活を高めていく地域振興活動である。現場のリーダーを育てる「豊の国づくり塾」も始め、地元の人々の意識を変える文化運動を推進していった。こうした中から、後に全国区となるような有名ブランドも生まれ、知事の理念が、物産販売や観光において、実現していくことになる。

在任期間中、大分は、サッカーワールドカップを招致しており、Jリーグの大分トリニータも生まれている。さらに、湯布院の観光開発が進み、立命館アジア太平洋大学(APU)が招致され、また、別府アルゲリッチ音楽祭も始まっている。当時、大分は、何かと全国的な話題になり、注目を集めた。

平松自身も、地方の時代の立役者となり、道州制の導入などを主張して、そのエネルギッシュな活動で、全国的な関心を集めることになる。

知事としての在任期間中(1979-2003年)、選挙は6回行われており、最低で73%、最高で88%の票を得ており、県民の支持は絶大なものがあったと推察される。大分県の一人当たり県民所得は福岡を抜き、九州では1位を記録するまでになったことも付記しておきたい。

また、平松は先見性のある、GNPでなくGNS、県民の幸福度というものを目標指標として、当初から唱えた人でもある。そして、数々の功績を残しながら、平松は勇退した、80歳の時である。

グローバルに考え、ローカルで行動する

平松はよく、着眼大局、着手小局という言葉を引用している。自分自身は、ローカルの知事でありながら、視線は高く、世界の流れを見通しながら、地域の行く末を構想していたものと思われる。

そして、九州は、国とは別の次元で、外国との経済や交流の役割を担うことも主張した。

彼は、中国、韓国、東南アジアとの連携を重視し、アジア経済圏の構想も打ち出していた。そして、「一村一品運動」はアジア各地へと広がり、その功績が認められ、1995年には、アジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞も受賞している。

こころも豊かな豊の国

さて、大分、長くなったが、以上、宇佐八幡、大友宗麟、平松守彦と、全く、時代も異なり、神も人も同じく、紹介してきた。

本稿のテーマである、大分の特色とは何だろうか、その締めくくりに入ろうと思う。

宇佐八幡の歴史をみると、全国への発信力は絶大で、神仏習合を守り、天皇家から民衆に至るまで、広くその信仰が普及した。

また、大友宗麟は、短い期間であれ、西洋の文物とキリスト教の受容、南蛮貿易を広げて、屈指の国づくりを行った。一時期の近世日本では、一番のグローバリストではなかったか。

こうした歴史を見ると、大分の地は、普遍宗教である仏教やキリスト教を受容できる十分な柔軟性を備えていたと思われる。

そして、平松は、絶大なパフォーマンスで「一村一品運動」を発信し、自治体交流としては、異例の高レベルな世界各国とのネットワークを築いた。

大分の特色とは、柔軟性と発信力、世界性にあるとは言えないだろうか。また、それを支えるリーダーシップと土壌があったとも。

これから自分なりに、こうした特色を意識しながら、故郷の大分のことを伝えていきたいと思う。

最後に、平松は「モノも豊か、心も豊かな豊の国」を大分のキャッチフレーズにしていた。

どの地域、どの国においても、応用できる言葉ではないかと思う。

大分と言えば、モノも心も豊かな県、とイメージが湧いてくるように、私なりに、故郷への恩返しの役割を果たせればと思っている。

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参考文献:

『街道をゆく 大徳寺散歩、中津・宇佐のみち』(1990年 司馬遼太郎著 朝日新聞社)

『グローカル知事平松守彦 その発想と実践』(2004年 蒲原由和著 西日本新聞社)

関連サイト:

大分県立歴史博物館

宇佐神宮

六郷満山

大分市歴史資料館





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