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日向神話と飫肥城 ポーツマスの旗

幸福度No.1 宮崎

ブランド総合研究所の都道府県「幸福度ランキング」によれば、宮崎は昨年1位、今年は2位になっており、ここ数年、沖縄とトップを競い合っている。

幸福度が高いかどうかは「過ごしやすく、暖かい気候や風土、人間関係が大きなポイント」で、緑や食が豊かであること、気持ちに余裕を持てること、などが左右するという。

また、農業産出額(2019年)でいうと、宮崎は全国で5位に入り、自治体別の産出額では、宮崎の都城市が877億円で1位、産出額の増加率(2014年比)では、日向市がトップに入っている。これは、宮崎の農業が、稲作から畜産、園芸へと早くからシフトした結果が出ているようだ。

「宮崎牛」は今や「神戸ビーフ」、「松坂牛」と並び、国が保護する地域ブランドとして登録されており、高級マンゴーの「太陽のタマゴ」はデパートの贈答品として人気を博しているのは周知のとおりだ。

少し昔の話でいえば、1960年代、宮崎南部の日南海岸は、国内の新婚旅行のメッカになっていた。スポーツでは、プロ野球巨人軍のキャンプ、ゴルフのダンロップ・フェニックストーナメントの開催地として宮崎は、全国的に知られていると思う。

そして、2007年からの4年間、東国原知事の在任時には、何かと宮崎は注目を集めたのではないだろうか。宮崎出身の著名人の中には、俳優の堺雅人、モデルの蛯原友里、シンガーソングライターの今井美樹らがいる。

宮崎県も人口減少の波には呑まれている。しかし、地元の人の幸福感は高く、地の利を活かした産業の取り組みを行なっており、地域ブランドの発信力も健在だ。

宮崎の地域のコンテンツには、どんな魅力があるのだろうか、そうした関心から、宮崎を訪れてみた。

分け入っても 分け入っても 青い山

宮崎県は、九州の東南に位置する。東の日向灘に面する海岸線は、南北約400キロ続いている。今回、宮崎へは、大分から、JR日豊線の特急で入った。

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大分駅から南へ向かう途中、電車は県南部の臼杵や佐伯を通り、海岸線と山あいの間を縫って進む。この辺りは、遠い昔の1600年、日本に初めてオランダ船が辿り着いた豊後の地だ。身を乗り出して、船が漂着したと思われる入江や沖合に浮かぶ小島を探して想像を膨らませた。余談だが、この船には後に、徳川家康に重用されることになるイギリス人航海士のウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗っていたことも触れておきたい。

大分と宮崎の県境を過ぎると、九州の中央を北東から南西へと高い山々が連なる九州山地の東端を電車が進んでいく。深い山々が延々と続く中、渓谷が顔を覗き、景色を楽しむことができる。山頭火の「分け入っても 分け入っても 青い山」という句が浮かぶほど、電車に乗りながらではあるが、山の中を分け入るという感覚になる。ちなみに、JR九州で富裕層向けに大人気のクルーズトレイン「ななつ星」も同じルートを通るはずだ。

そして、更に、電車が進むと、視界が開け大きな海原が見えてくる。この海岸を目にするのも、高校生の時にサイクリングで来て以来、変わらぬ自然の光景に気持ちが和んだ。

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南国の駅

さて、大分駅から3時間あまりをかけて、ようやく宮崎駅に辿り着いた。前日からの雨で空模様を心配したが、真っ青に晴れ渡っていた。駅舎は白を基調にデザインされており、駅前のロータリーには県木のフェニックスが目に入る。南国の空気が肌を包み、すっかりリゾート地に来たような気分になるから私も能天気である。

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今回は有難いことに、この地に赴任する友人が駅に迎えに来てくれた。真っ赤なボルボで軽やかに運転してきてくれた高校時代の友人は会うなり開口一番、「まだ、腹が出ちょらんな」である。前回、7年ぐらい前に会ったときは「まだ、頭髪は残っちょるな」だったので、いきなりの単刀直入は田舎流儀なので、全く気にならない。まずは互いの身体検査をしてから車を走らせた。

この日、友人は1日中アテンドをしてくれ、数十年のギャップを埋めるように互いによく話し続けた。話題は若い頃と比べて随分と変わったが、気兼ねなく話ができる間柄が嬉しかった。旅の最後は、宮崎の郷土料理までご馳走になり恐縮した。

本稿は、その友人のドライブの下、宮崎駅から宮崎神宮に向かい、さらに、鵜戸神宮を経て、飫肥城までの、短い旅から感じたことの報告である。さすがに車がなければ行けないルートだった。友人には博多に戻った後、すぐにお礼の品を送ったものの、宿題のエッセイを届けるのにかなり遅くなったことは白状しておきたい。

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「神話のふるさと」

昨年来、空前のヒットを記録している漫画「鬼滅の刃」は、原作者が福岡出身で、九州の幾つかの神社が題材になっているという話もあるようだ。

また、ソニーのプレーステーションで世界的な人気ゲームとなっている「ゴースト・オブ・ツシマ」は、蒙古襲来時の九州の対馬が舞台となる話だ。

九州は、この地の神話や歴史を掘り起こし、漫画やゲームのコンテンツを作るという点では、材料に事欠かないのかもしれない。

そして、宮崎と言えば、やはり「神話のふるさと」というイメージになるだろうか。

宮崎の高千穂は、日本の神話では、天孫降臨の地と言われており、日本の国と天皇家は日向(ひゅうが)の地が始まりとされている。この地から、天皇家の初代、神武天皇は、海を渡り、幾多の困難を経て、大和で統一政権の樹立を宣言した、という神武東征の話が、古事記(712年)の「日向神話」の中で伝えられている。

今回の短い旅では、神社は二つしか訪れることはできなかったが、こうした神話は、宮崎各地の神社の行事や、地域の風習、祭りの中で、今なお息づいているようだ。

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そもそも、なぜ、朝廷がある大和から遠く離れた日向の地が、国が始まる神話の舞台になったのだろうか。色々と学者の説があるようだが、おそらく、この地の自然環境とそこに住む人々の存在は大きかったのではないかと推察する。

宮崎の郷土史家、永井哲雄氏は、宮崎は神話・伝承の宝庫であり、それに「ふさわしい舞台となる美しい山紫水明の地があり、それを伝える緩やかな時の流れがあり、さらには神話・伝承を過去のものとしない人々の強い思いと生活がある。」と述べている。

実際に、宮崎の各地を訪れると、豊かな神話の世界に興味が湧き、想像力が掻き立てられるというのは、自然の成り行きかもしれない。

宮崎神宮へ

まずは、最初の訪問地、宮崎神宮から紹介してみたい。

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宮崎神宮は、ご祭神として、先に触れた天皇家の初代、神武天皇をお祀りしている。神宮は、神武天皇の孫が祖父の遺徳をたたえ、この地で鎮祭したのが始まりで、後に続く代で社殿が造営されたという。その後も地域で信仰が広がり、説明によれば、明治維新以降に、神宮は一躍脚光を浴びるようになったという。というのも、天皇を中心とした近代国家を作るうえで、国の原点を再確認するという気運が盛り上がり、神宮への関心が高まったからのようだ。

境内にある門の扉には大きな菊の御紋があり目を引く。昭和天皇は度々この地を訪れ、上皇も皇太子の時代に訪れている。皇族の訪問も多く、深い森に囲まれた境内に、厳かな雰囲気を感じることができた。

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余談だが、宮崎神宮の傍に洋風の古い建築物が保存されており、慶応大学にある三田演説館(1875年)と似ていたので目を引いた。以前は、宮崎神宮の宝物や書籍を陳列・保存するために利用されており、明治42年(1909年)に建てられたものという。年代はかなり異なるが「なまこ壁」が共通しており珍しいので、付記しておきたい。

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鵜戸神宮 安産の祈り

次に、訪れた鵜戸神宮は日向神話の舞台となっており、こちらも案内したい。

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鵜戸神宮は、日南海岸の岬に位置している。
ご祭神は、神武天皇の父が祀られている。遠い昔の神話の中では、神武天皇の祖父となる山幸彦と結婚した海神の娘が、この岬の洞窟で子どもを出産したと伝えられているようだ。この地は、今では、安産、子育てにご利益がある場所とみなされ、人気のスポットになっている。

神宮の社殿は、古く桓武天皇の時代に建立されたと伝えられ、以来、南九州を代表する神社として人々の信仰を集めてきたようだ。

そして、この神宮は、先に触れた洞窟の中にある本殿が何よりも珍しい。また、海岸にそそり立つ奇岩怪石の群は見応えがあり、約800万年前に、砂や泥、これに海洋生物が堆積して露出したものだという。これらは、いずれも一見の価値があり、神話の舞台に相応しいと感じた次第である。

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さらに、岬の上から、本殿や奇岩、日向灘を見下ろす風景はまた見事である。本殿から上がる階段の脇には、北原白秋の歌碑があり、「鵜戸の海 夕虹明し まさしくぞ 神降り立たす 天の浮橋」と歌われていた。目の前に虹が立ち現われれば、さぞかし絶景であり、海の向こうの橋から神が降り立つ姿へと想像が膨らむことになった。

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以上、やや、かけ足となるが、二つの神宮訪問記とさせていただきたい。

飫肥(おび)城を知っていますか?

次に、神話の話から、日向の歴史と人物の話へと移りたいと思う。中でも、今回訪れた、日南市の飫肥にまつわる話である。

江戸時代の日向国と言えば、現在のほぼ宮崎県と同じ地域を指すと考えていいようだ。日向には延岡、砂土原、高鍋、飫肥などの小藩が分立していた。その中でも、地理的には一番南にある藩が飫肥で、5万1千石の藩である。藩主は伊東家で、戦国時代からこの地に定着している。ちなみに、現在、宮崎県の人口は100万人を少し超える程度だ。

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まずは、飫肥城の話から入りたい。

飫肥城は、天守閣はなく平屋建てが特徴となっている。跡地には、城の門や城壁が残されており、城の資料館には、城主の文物の展示もあり、往時を偲ぶことができる。そして、城を背にして小さな城下町が広がり、建物が保存されており、辺りの散策を楽しむことができる。台風の通り道となるこの地の武家屋敷は石垣や生垣を塀として災害に備えており、南国独特の様式が感じられる。周囲を歩いて回りながら、アットホームな城下町という印象を持った。九州・沖縄では、最初に国の「重要伝統的建造物群保存地区」(1977年)に選定されており、景観が保護されている。また、2004年には、NHKの連続テレビ小説「わかば」のロケ地にもなったようだ。

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そして、飫肥藩の歴史にも少し触れておきたい。

幕末には、飫肥の藩主も、九州の鍋島藩や薩摩藩と同じく、藩校、振徳堂(1831年)を設け、藩士の子弟教育に力を入れていたようだ。優秀な学生には、長崎や江戸で、洋学を学ばせている。その中の一人が後に触れる、明治の外交官の小村寿太郎だ。

また、時代を遡ると、藩主の伊東家が、豊後の大友宗麟の遠縁だったこともあり、1582年にローマに派遣された4人の天正遣欧少年使節の主席、伊東マンショが、飫肥の伊東家から出ていることも飫肥の歴史の一コマとして付記しておきたい。帰国した彼らは、豊臣秀吉の前で西洋音楽の演奏をして喜ばせたという逸話も残っている。

そして、幕末・維新の時代、飫肥藩も小藩ながら、戦に巻き込まれて行く。戊辰戦争では官軍側についたものの、西南戦争では、千名ほどの飫肥隊の兵士が西郷軍の側で戦い、多くの犠牲を出している。小村寿太郎の恩師で、飫肥で秀才の誉れ高く、政府の役人として活躍していた小倉処平もこの戦争で亡くなった。飫肥にとって隣の薩摩藩の存在は強大で、常に影響を受けていたようだ。

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小村寿太郎とポーツマスの旗

以上、飫肥の歴史を垣間見て、最後に、この地から生まれた明治の外交官、小村寿太郎(1855-1911)の話に移って行こう。少し長くなるが、お付き合い願いたい。

小村については、小説家の吉村昭が書いた『ポーツマスの旗』という本の中で、よくその人物像が描かれている。名著と言われるこの本は、日露戦争の勝利の後、日本がロシアと結ぶ講和条約交渉の全貌が語られている。以下では、この本の内容を基にしながら、小村という人物を紹介してみたいと思う。

小村は、1855年生まれ。彼は、飫肥から江戸へ出て、東京大学の前身となる学校で学び、政府の留学生として、ハーバード大学に進学し卒業している。ニューヨークの法律事務所の勤務を含め、5年のアメリカ滞在を経て、日本に帰国している。その後の10年ほどは、司法省や外務省で、判事や翻訳局長の職に就いたものの目立った活躍はしていない。しかし、彼は、当時の外務大臣、陸奥宗光の目に留まり、外交官として、清国、ロシア、アメリカで公使としての実績を積みことになる。後に、彼は、外務大臣にまで昇格し、日英同盟を締結させている。そして、小村の名前を歴史に残すことになるのが、日露戦争後のロシアとの講和条約をめぐる交渉である。全権大使として、時の桂首相から、小村に白羽の矢が立てられ、その任を果たすことになった。

アメリカのボストンから北の海岸沿いにポーツマスはある。人口は1万人足らずの港町で、海軍工廠の町として栄え、夏は避暑地としてホテルや別荘は賑わいを見せていたようだ。アメリカの大統領、セオドア・ルーズベルトはこの地を交渉の地として選び、舞台の便宜を図った。そして、ポーツマスの人々は、歴史的な場所に選ばれたことを光栄に思い、市を上げて、条約交渉に臨む両国の代表団を歓迎したようだ。

ルーズベルト大統領は、親日家とみなされており、彼は、交渉の初めから終わりまで、献身的な仲介者の役割を果たした。その功績で後に、彼はノーベル平和賞を受賞している。また、ハーバード大学で小村のルームメートだった福岡藩出身の金子堅太郎が、ルーズベルトと個人的に親しく、非公式なルートを通して重要な情報伝達の役割を果たしたことも記しておきたい。

全権大使としての小村の役回りは見事であり、誠実を旨とする交渉姿勢や、国益に基づく現実的な思考、情報収集の徹底、本国との調整など、政治家、外交官として、存分の力を発揮している。

当時は、帝国主義の時代、西欧列強に与する日本は、天皇、内閣、軍部、情報機関が一丸となり、国運をかけた濃密な議論と協力ができていたようだ。先の本の著者、吉村昭は、講和条約の成立は明治維新と太平洋戦争を結ぶ歴史の分水嶺だったと記している。

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ロシアとの難しい交渉を延々と続ける中で、最後に、領土問題でロシア側の譲歩を引き出し、小村は条約締結を導くことができた。彼は、ぶれることなく筋を通し、肚の座ったタフな交渉ができる人物だった。

薩長土肥の藩閥が政権の中枢を占める中で、小藩出身の小村が、政府内で全幅の信頼を得て、外交における役割を期待されたのは異例のことだと見られていたようだ。

それほど、彼の国益を守る思想や、外交官としての専門性、人間的な高潔さを、周囲が評価していたものと思われる。

小さな巨人

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飫肥城跡地の近くには「国際交流センター 小村記念館」があり、今回、訪れてみた。

記念館に入ると、いきなり、小村の原寸大のフロックコートを着たパネルが立っており、まずは、そのサイズの小ささに驚いた。若い頃から、体は小さかったようだが、学生の頃の写真を見ると、美少年の面影を残すハンサムな青年だった。後に、彼は、政府の高官となりながらも、生活は質素で、いつも着るものはフロックコート一張羅だったという。もう少し、外見にも気を使えば、海外のメディアや外国要人との社交においても好印象を与えたのではないかと思うと残念な気がした。しかし、この小さな男は、小さな藩の出身ながら、誰であれ、言いたいことは言い、やることは大胆にやる、日本を代表する巨人の役回りを果たし、その堂々とした姿勢は、外国の交渉相手からも一目を置かれたようだ。

ロシアとの交渉をまとめた後、小村は精根尽き果て病に陥り、しばらく療養に専念して帰国する。汽車で小村が到着した新橋駅のホームでは、厳重な警戒の下、桂首相、山本海相らが出迎えに来た。この頃、国内では、屈辱講和反対の大きな騒擾事件が起きており、小村の身の安全も脅かされていた。この事件の後に、内閣は総辞職をしている。世間の見方がどうであれ、講和で平和を導いた小村への評価は、明治の元勲、閣僚ら、国家の指導者からは揺るぎないものとして定着していた。

晩年、小村は、自分の執事を連れて、故郷に戻り、歓迎を受けている。それから、ほどなく、彼は体調を悪化させ、体は痩せ細り、神奈川の葉山の小さな家で、執事に見守られて、56歳の生涯を終えた。遺品には高価なものは何もなかったという。また、小村は、家庭では幸せな生活を送れなかったと伝えられている。

死期を前にして、小村は国家に尽くした自分のキャリアと家庭をどう顧みたのだろうか。幸せな人生だったかどうかは分からない。執事は最期まで彼に対する敬意を失わず、務めを果たしたようだ。

現在、飫肥がある日南市は、ポーツマス市と姉妹都市となっており、現地の学生の訪問を受け入れるなど、国際交流が行われている。

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宮崎から世界へ

さて、締めくくりに入ろう。

宮崎には、温暖な気候があり、豊かな山と海の自然があり、日向神話の物語がある。そして、歴史や人物を辿れば、小藩の城下町が残っており、明治で活躍した外交官の功績に学ぶことができる。今回の短い旅からでも、数多くのコンテンツが宮崎にはあるように感じた。

「神話のふるさと」の宮崎としては、これからも、どう神話の題材を地域おこしに引き出すことができるのか、腕の見せどころだろう。

そして、小村寿太郎のように、堂々と外国とも渡り合える人材を育てる、ということも、平和のテーマとして、地域から構想できないだろうか。

自分の地元が好きで、子育てをしながら、ずっと住んでいたいという若者がいる県には、将来性があるに違いない。

宮崎の新しい展開を楽しみにしながら、筆をおきたいと思う。

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参考文献:

『ポーツマスの旗』(1979年 吉村昭著 新潮社)
『小村寿太郎とその時代』(1998年 岡崎久彦著 PHP研究所)

関連サイト:

宮崎県総合博物館
https://www.miyazaki-archive.jp/museum/

宮崎神宮
https://miyazakijingu.or.jp/

鵜戸神宮
https://www.udojingu.com/

みやざきの神話と伝承
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/miryokuippai/shinwa.html

飫肥城歴史資料館
https://www.kankou-nichinan.jp/tourisms/300/

小村記念館
https://obijyo.com/shisetsu/komurakinenkan/

宮崎県郷土先覚者 小村寿太郎
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/komura/


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