夏の夜 波の音 2

「先生なのにいいんすか?」

「先生だからだよ。」


その数時間後、自分はその女の家にいた。


その女は高校の教員で、美術を教えていると言っていた。


「こんな遅くに、こんな若者がふらふらしてたら危ないでしょう。どうして家に帰りたくないのか分からないけど、帰りたくないのならせめてここにいなさい。」


その女が友人らと一緒に去っていった後、友人の1人の女が戻ってきて、
「トイレ貸してもらったんなら、ラインくらい教えてあげないとねー」と言って、その女の携帯を差し出してきた。

自分は躊躇うことなく、いいんすか?と言って、友達に追加した。


『さっきはありがとうございました。』

また会いたいです。

と入力してから、なんか気持ち悪いかな、と思って一度消したが、やはりもう一度同じように入力して送信した。
そして送信してから恥ずかしさが込み上げてきた。


数分経って、女から返信があった。

『トイレ貸してくれてありがとうね〜
早くお家に帰るんだよ。』

また会いたいです。という言葉に、何も反応してくれなかったことに、有り難く感じた。


その女の家は、自分の家からさほど離れてはいなかった。
女は既にシャワーを浴びていて、濡れた髪からシャンプーの匂いがした。



「これ、誰の絵ですか?」

部屋には絵が所々に飾られていた。

「これはゴッホ。ゴッホの寝室。トイレに飾ってあるのは、ゴッホのひまわり。」

「え、ゴッホってめっちゃ高いんじゃないんですか?」

「君面白いね。ポストカードの絵なんて、100円ちょっとで買えるよ。」

「ゴッホが好きなんですか?」

「んーそうゆうわけでもないかな。ただ、この部屋の雰囲気に合うのがゴッホの絵だから。」

女はお酒を持ってきてから、
「いけない、お酒はまだダメなのか。」と言いながら、代わりにペットボトルのジンジャエールを持ってきた。


家具の色が統一されていて、女のセンスの良さを感じた。

部屋にテレビはなかった。

ダイニングテーブルと、ベッドとソファと本棚だけが、その部屋にあるものだった。

本棚には主に小説ばかりが並んでいた。

女性ものと男性もののマガジンブックも置いてあった。
ベッドには枕が二つあって、きっと男がいるんだろうなと感じた。


「どうして調理師になろうと思ったの?」

「両親が店やってるんですよ。そこにきてくれるお客さんとかが、親父が作った飯食って、めっちゃ幸せそうに帰っていくの見て、ああ、俺もこうゆうことを仕事にしたいなーって思ったのと、あとは、勉強しなくていいからですかね。」

「なるほどね、素敵な理由だ。」

女はそう言って水を飲んだ。


「どうして家に帰りたくないの?」

「なんとなくっすよ。別に帰らなくてもいいかなーって感じで。別に家族との仲が悪いわけではないですよ。でも、なんか、ひとりでいたい時があって。」

「わかる気がする。」

「たぶん、なんか、漠然と未来が不安なんです。」

「うんうん。」

「もう、人生どうでもいいやーってなっちゃってて。」

「うんうん。」

女は自分の発言に対して、ただ頷くだけだった。
そんな女の態度が、自分を解放させてくれた。

「いいことあるのかなー。この先、生きてて。」


その女はしばらく黙っていた。

自分の発言を、ただ表面的に受け取って、つまらない返答をしてこない女の姿を見て、さっき自分が、この女にまた会いたいと思った感覚に納得した。


「わたしも不安だよ。
この歳になっても不安だよ。
このままでいいのかなー、本当はもっとやりたいことがあるんじゃないのかなーって思う。
でもね、生きるってのは、結構楽しい。
その楽しさは自分で見つけていかないといけないんだけどね。
こんな世の中に生まれてきた子どもが可哀想っていう人がいるけど、じゃあなんであなたは生きてるの?って思う。
生きることに楽しさを感じているからなんじゃないのかな?
この世がどんな状況になっても、私たちは楽しんで生きることができるんだよ。
どんなに辛いことも、乗り越えて生きていけるんだよ。
でも、受け身じゃダメだよ。
生きるってどうゆうことなのか、自分で見つけていくの。
人生を独学するんだよ。
別に何者かにならなくたっていいんだから。
私は、芸術がなかったら、きっととっくに死んでいる。
音楽がなかったら、絵画がなかったら、本がなかったら、きっととっくに死んでいる。」

女はコップに入っている水を飲み干すと、頭が痛いと言って、ベッドに横になった。

「隣で寝てもいいよ。何もしないなら。」

女は顔を壁の方に向けながらそう言った。



町内放送の音で目が覚めた。
9時か…と思った。自分はベッドに寝ていた。
女はソファに腰掛けて、本を読んでいた。
味噌汁と、炊き立てのご飯のいい匂いがした。


「起きた?」

「はい。」

「朝ご飯食べてく?」

「いや、大丈夫です。」

そう、とだけ答えて、女はまた本に視線を戻した。


ベッドを整えて帰る支度をする。

「明日死んでもいいように生きてごらん。」

女は明るい口調でそう言った。

「そうしたら、長生きしたくなるから。」


気をつけてね、とだけ言って、女は玄関で自分を見送った。

もう会うことはない気がした。
会う必要がない気もしたし、会ってはいけないような気もした。

それは、女が自分にはもう会うつもりがないと感じたからかもしれない。

太陽はもう既に高い位置へと昇り始めている。

夏の虫が必死に存在を証明していた。

生きているって美しいと感じた。


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