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「主観」の人生の時代をどう生きるか -すずめの戸締まりより-

昨晩の金曜ロードショー すずめの戸締りを見て思った感想をメモ程度に。

すずめの行動原理

すずめの行動原理が最初不思議に思えた。
死ぬのが怖くないのかと問われ、怖くない!と即答する、高校生が持つにはあまりにも達観している価値観にギャップがあるなと思いながら見ていた。

しかし、物語を通じてそれは過去の震災で生きるか死ぬかは運命のようなものということを徹底的に分からせられた彼女自身の経験からきていた。

この物語におけるイスの意味

私はこの映画を、人と場所の関係・人とモノの関係という視点で見ていた。

震災を経て、すべてを失ってしまった鈴芽にとって、イスは彼女と故郷、母親とをつなぐ唯一の手掛かりであり、だからこそ彼女はその椅子にこだわり後を追った。

彼女が草太にこだわるのは、決してであったころから草太に気があったとかではなく、草太とイスが一体化しており、イスがなくなるということは彼女の記憶の依り代がなくなるのと同義だったからである。

最後の「好きな人のところへ」という言葉は決して草太だけではなく、椅子に結びついた母親との記憶、家族との記憶に向き合う意思の現れのように思えた。

後ろ戸が意味しているものとは

その先で開いた後ろ戸を閉じるために彼女は、閉じ師としての役割を草太から引き継ぎ、場所の記憶を想起し請負いながらその場所の扉を閉める。

これは、震災あるいは津波によって彼女の居場所そのものが失われてしまったことで、土地の記憶やかつての暮らしに思いに敏感に思いを馳せることができた彼女だからこそできた事のように思える。

ここで、各地で災害が寸前で止まる描写に違和感を一瞬感じたがこれはあくまで彼女の物語であり、だからこそ実害が出るのは彼女の行動の最初のきっかけとなる宮崎だけなのであると思う。

この物語において、草太にとっての後ろ戸は災害を引き起こすトリガーかもしれないが、私たちにとっての後ろ戸とは、場と自身の関係の不合理さや不誠実さによって生まれるある種のトラウマ的なつながりのように思えた。

主観の人生

最初の災害により、彼女の心の中に閉じ込められていた震災の記憶の扉が開いてしまう。自分と母親とを引き離し、すべてを飲み込み焼き尽くした震災の記憶。クライマックスのすずめが飛び込んだ自分の扉の風景がそれを物語っている。

彼女が旅をする中で、少し年上のお姉ちゃんみたいな存在、スナックのママ、大学生のお兄さん、おじいさんと出会い、それと共にいくつかの場所の異なった形での場所の終わりを目にする。

土砂災害で閉校になった場所の記憶。

廃遊園地での楽しげな記憶。

関東大震災の史実。

様々な場所の終わりの姿を目の当たりにし、彼女が自分なりにその記憶と向き合いながら扉を閉め、その場の物語に終わりを告げる。
そこで想起される映像はあくまで彼女の主観の想像力としての映像だった。

人との出会いと、多様な場所との出会いが彼女を成長させてゆく。

これは、あくまで彼女の「主観」の物語として一貫していく。

君の名は。・天気の子・すずめの戸締りに通底するそのメッセージの強さはこの「主観」の強さにあるように思える。
あるいはRADWIMPSがもつ、音楽と言葉の強さもこの主観性からきている部分が大きいように思える。

ずれた時空と逃れられない現象の中で、運命とも思える人の命を守るために時を超えた瀧くんと、変電所の爆破すらもいとわない三葉

世界の形が変わってしまっても、自分が大切だと思った人を救いたいと思う穂高

好きな人を救うために、自分の過去の記憶と場所との思いにまっすぐに向き合うすずめ

「個」の時代として自由さが保障されるある意味難しい時代を、

その危なくも青々とした若さと共に、

周りに自分を求めるのではなく、

「自分の主観」

を信じながらまっすぐとして生きている彼らの姿を描き切るのが
近年の新海作品の凄さだと、昨日のすずめの戸締りを見て改めて納得した。


私たちはみな主観の中にしか生きられない

この主観力って、実はものすごく大事なように思える。

今の世界は、メディアの情報に溢れ、SNSが浸透し、ガラスの透明な空間が街にあふれる、ある種の客観に囲まれているような世界ともとれる。

その中でも、私たちはどうあがいたって主観の世界しか生きられない。

だからそこ、自分の中から生まれる矢印や感情、自分と人、場所との向き合い方を含めて、自分の主観を信じながら生きてみたらどう?

そんなエールをもらえるような映画体験だった。


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