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いつでも人生に「Yes」を。時々、強烈な「No」を。

「人生ストーリー」を聞くことが大好物です。

その方がどんな人生を送ってきたのか。節目節目でどんな選択をしたのか。何が今に影響を与えているのか。生き方のテーマは何か。どんな個性、特徴のある方なのか。
キャリアコンサルタントとして、ライターとして、これまでにお話を聞かせていただいた人数は、10年前くらいに1万人を超えて、その頃からもう数えるのはやめました(笑)。
………で、ですね。
そんな私は、山の頂に駆け上がって、こう叫びたい。

人って、一人ひとり、全然ちがうんだー!!!!!!

もう、ホントに、一人ひとりの人生が、ユニークで、素晴らしく面白い。
著名人でなくとも面白い人はいーーーーーーっぱい、いる。

と、そんな風に、私はいつもいつも他人様の人生のことを聞いたり、書かせていただいたりもしているのですが、今日は、私の人生の話です。はい。

自分の人生の当事者として、そのど真ん中を生きつつ、なんだか職業病ですが、キャリアコンサルタントとして客観的に自分の人生を観てみると、実践を通して見つけたひとつの真理が今日のタイトル。

「いつでも人生に『Yes』を。時々、強烈な『No』を」です。


1.山伏が修行中、口にする「たったひと言」

ところでくどいようですが(笑)、私は山伏でもあります。
(詳しくはこちら)

山伏修行は、内容を口外してはならないことになっているので細かくは書きませんけれど、公になっていることなので良いだろう、ということのひとつに、「修行中は無言である」というのがあります。

正確にいうと、発していい言葉はただひとつ。「うけたもう」。
意味は、「受けます」ってことです。
たとえば、先達(修行を導いてくださる師匠のような立場の方)に指示を出されたら「うけたもう」。ま、これは当然ですが、なにせこの言葉しか発してはいけないので、たとえ文脈がおかしくても「うけたもう」。いつ何時でも「うけたもう」なのです。

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この、「うけたもう」しか言えない、という状況は、なかなかに意味深いものがあります。

たとえ口に出して言わなくても、たとえば修行中に大雨が降っても、心の中で(うけたもう)。大風がふいても(うけたもう)。
泥だらけの道なき道を行くことになったとしても(うけたもう)。
えええええーーーっ!と言いたくなる何かが起こっても(うけたもう)。

………この、便利極まりない現代社会において、嫌なことはしない。合わない人とは距離を置く。不快や不便を避ける。なんてことは、たやすくできてしまうことです。

けれども修行では、置かれている状況や環境、自分の身に起こっていること、自分の内側で感じていること、すべてにおいて拒否をせず、もちろんそれを変えようともせず、ただただ「うけたもう」するのみ。
私はこの「うけたもう」を通して、「『流れ』とダンスするような生き方」を体験的に学べたように思っています。(現在進行形ですが)

成人の発達プロセスにおいて、大きなパラダイムシフトのタイミングがある、と言われます。それは、主体が変わる、ということです。

どういうことかというと、

私は、自分の人生を自分で選択して生きている。
人生を創り出しているのは私だ。

から

私は、人生が私に問いかけていることを聴き、それについていく。
人生が私を創り出している。

への転換です。
前者は、自らが人生の手綱をにぎり、それをコントロールしている感覚。
後者は、その手綱を手放している状態。まさに、「うけたもう」です。

オーストリアの精神科医・心理学者に、ヴィクトール・フランクルという人がいます。ユダヤ人であることから第二次世界大戦中に強制収容所に収容され、過酷な労働、大切な家族を亡くすなどの壮絶な体験をした方です。『夜と霧(原題:心理学者、強制収容所を体験する)』など、名著が数多くありますが、この本も人生について語る時には欠かせない一冊です。

『それでも人生にイエスと言う』V.Eフランクル

内容についてはぜひお手に取っていただければと思いますが、タイトルにあるように、フランクルは「人生にイエスと言う」ことを勧めています。(以下書籍より引用)

私たちが「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。・・・
こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。・・・
もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。・・・
どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。

今年のコロナショックの際、三密業界にいる私は、仕事で大打撃を受けました。それに伴い生活スタイルは一変し、その変化は今も続いているため、昨年とはまったく違う、想定していなかった状況にあります。

でも、実は、ほぼ、不安を感じることがなかったのです。
むしろ、先日までの自粛期間に、幸福度が変わらない、もしくはちょっとあがったのではないか?というくらい、幸福でいられました。
ただ刻々と変わっていく状況に添い、日々の営みを生きていただけでした。瞑想を長くやっていたからか、山伏修行の「うけたもう」だからか、定かではありませんが、その自分の反応に私自身が少し驚いたほど、外の世界で起こっている騒々しさと、私の内側の平穏には乖離があったのです。

もしも私が、「人生の手綱は私が握っている」という考え、もっと言えば「私は物事をコントロールできる」と考えていたら、できなかった態度だと思います。コントロール欲求が強ければ、その思い通りにならない毎日にヤキモキし、早く終われとイライラし、何かにすがりたくなったでしょう。

もしも私が手綱を握っているとしたら、それは「どう在るか」の手綱だけです。周りがどんな状況になったとしても、「どう在るか」だけは、私の手に残されている自由です。コロナ禍で私が選択したのは、「日々楽しく、うけたもう」でした。
(もちろん、状況や環境で、恵まれていた点もあったとは思います。もっと過酷な環境に置かれていたらわかりませんが…………とはいえ、そういう類のことはどこまでいってもキリがないので、目の前に現れたもので考えるほかありません)

この体験を通して、目の前の出来事には意味があるととらえること、「いつでも人生に『Yes』でいること」が人生を豊かにするコツなのでは、とあらためて感じたのでした。

ちなみに私が雑誌の編集者になったのも、フリーランスになったのも、キャリアコンサルタントの資格を取ったのも、研修の講師になったのも。これまでのキャリアチェンジはみんな、計画ではなくて、目の前のことに「Yes」を言って、流れに添ったからです。自分で考えて決めたものは、ひとつもありません。
そして今年、法人を創りましたが、それも「自分の意志で創った」というよりは、「創らざるを得なかった」というか、「創ることになってしまった」というか、そんな感覚が自分の中にはあります。変な表現ですが。


2.人生が動いた時は、強烈に「No」を叫んだ時だった


矛盾するような話ですが、人生にいつもいつも「Yes」を言っているかというと、振り返ればそうではなく、私の人生が大きく動いたときは、はりさけんばかりの大声で、自分の人生に「No」を言った時でした。

たとえば、二度目の離婚をしたとき。大きな仕事を手放したとき。

その後、ものすごく大きな波で人生に変化が起きたキッカケは、自分から、強烈な「No」を出して、動いた時です。しかも共通するのは、

「この人生は、私の望んだ人生ではない!」

と強烈にキッパリと宣言したこと。(心の中でね)
そしてその宣言時には、次の予定も補償も何もない、言うならば草一本生えていない、不毛な荒野に向かって

「この人生はちがーう!!!!!」

と大声で叫んだことです。(イメージね)

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次どうしたいか、はわからない。でも、違う、ということはハッキリわかっていた。そして、これ以上「違うと思っている人生」を生きられるほど、器用な自分ではなかった。その時点ですでに、ズタボロに傷ついていたけれど、それでもやはり「違う」というその感覚に嘘をつくことはできなかった。

「荒野に叫ぶ」はあくまでイメージ、ですが、もうそれは、自分の中では鮮明に体験できるほどの力強さでした。
見渡す限り何もない荒野に立ち、肚の底から湧き上がる大声で、

「この人生は、私の生きたい人生ではなーーーーい!!!!!」

と叫ぶ。その声は地面を揺るがし、地割れが起きるくらいの勢いがある。
そして荒野だから反響するものなどないはずなのに、

ない、ない、ない、ない………

とこだまが聞こえてきそうな(笑)、声のエネルギーが波紋のように大きく広がっていくような力強さ。でも、周囲には何もない。
しつこいようですが、それくらいの「強いNo」です。人生に、そんなに頻繁にあるようなものではありません。

言い換えれば、それくらいの強烈な「No」でない限り、自らその人生を「大きく」変えるパワーなど生まれないのかもしれません。
「変えたいな」「今とは違う人生があったらな」「◎◎になったらな」……なんて、ソフトなものじゃダメなのかもしれません。

もしくは、「次の見通しが立ってから」「ある程度算段がついたら」「勝算が見えたら」でもダメなんです。そんな安全牌じゃ、たいした大きさにはならない。というか、想定を超えることはない。なぜなら、「今の自分のあたま」で考えた計画だから。(あたま=過去の蓄積ですから、想定は超えられません)
ソフトな安全牌で選択してきたことは、あくまで「そこそこの結果」です。

そして以前にも書きましたが、そもそも、「終わるから始まる」のです。「始まりが保証されているから終われる」ではないのです。
「終わらないと、始まらない」のです。

強烈な「No」を出すと、思い切り傷つきます。痛みを負います。
少なくとも、私はそうでした。(もともとズタボロなのに……涙)
ただし、人生は大きく変容しました。
その痛みを引き受けてもなお、「この人生は違う!私が望んだものじゃない!!」と言えるかどうか。それが人生を動かすパワーだと、今は思っています。

※おまけ※
この話をセミナーやリトリートなどで直接お会いした方々にすると、多くの方々が人生相談をしに話しかけてきます。違和感がありながら、なんとなくそれを脇に置いて生きている。そんな自覚のある方が、少なくないのでしょうね。ちなみに、「二度の離婚(現在の夫は三人目)」については、女性たちがとくに関心を持ってくださいます(笑)。


3.軸もある。しなやかさもある

こうして書いてみると、人生には「Yes」も「No」も必要で、それはまるで「しなやかさ」と「頑固さ」の両立、のように見えてきます。

私の専門分野のひとつである「レジリエンス(折れない心、逆境から立ち直る力)」では、折れない心のメタファーとして「竹」を用います。

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大風が吹けばそれに抵抗せずにしなり、いつもはスックと軸を持って立っている。いつでもスックと立っていたら、バキッと折れてしまいます。

おおむね流れに身を任せ、「ここぞ!」というときには軸を発揮する。
それくらいのバランスが、ほどよいのかもしれません。


そう、思っています・・・・・・・・・・・今は!


書きながら思いましたが、これは「今は、そう思っています」という話です。これから、実践を経て変わっていくこともあるのだと思います。

変わりゆく自由も、私たちには、ある。

そんな自由を残しながら、実験の日々を生きていこうと思うのです。




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