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【異国合戦(2)】あれからの鎌倉幕府(下)

蒙古襲来について解説、考察するシリーズ第2回。前回記事は下記よりどうぞ。

名越家

 前回も述べた通り、北条泰時の死と後継者である北条経時の若年での執権就任により、鎌倉幕府は将軍派と執権派(得宗派)に分かれて静かに対立を深めていく。
 寛元2年(1244)、九条頼経からその子、頼嗣への将軍交代が行われる。将軍派の影響力を削ぎたい執権派の圧力があったと考えられる。頼経は政治的に妥協して将軍を辞すが、頼嗣の後見としてそのまま鎌倉にとどまり「大殿(おおいとの)」として影響力を維持した。ここは将軍派が最小限のダメージで決定的対立を回避したと言えよう。
 とは言え、将軍派は侮れぬ勢力であり、仮にこの時点で軍事衝突に発展した際、執権派が勝利したとは言い切れない。
 その将軍派の筆頭が名越家である。祖の名越朝時は北条義時の次男。生母が流人時代の源頼朝を支えた名門・比企氏の出身であり、高い家格を有していたが、その比企氏が北条氏に政争で敗れたため、微妙な立場となる。
 しかし、その出自の高さと、祖父・北条時政が住んだ名越亭を継承したことから、北条氏嫡流を自認していたとも言われる。承久合戦では北陸道軍の大将軍として出陣し、戦果をあげた。兄・泰時との仲は悪くなかったという説もあるが、父・義時の四十九日仏事を独自に行う、評定衆を短期間で辞任するなど得宗家、幕府中枢とは常に距離を取り続けた。「我こそが」という強い北条氏嫡流意識と得宗家へのライバル心によって名越家は将軍・九条頼経に接近していく。
 頼経から頼嗣への将軍交代から約1年後、寛元3年(1245)4月、朝時は亡くなるが、得宗家への対抗意識は嫡男・光時へと受け継がれる。
 名越家以外にも三浦氏、上総千葉氏といった有力御家人から、大江氏、三善氏といった文官層まで九条頼経・頼嗣親子に接近する者があり、この時点における将軍派は得宗家に対抗しうる巨大勢力であった。ただ、必ずしも一枚岩とは言えず、得宗家への反発や距離感はそれぞれにばらつきがあった。執権派はこの弱点を突いていくことになる。  

寛元の政変

 幕府の政局が大きく動いたのは寛元4年(1246)3月のことだった。前年から体調を崩していた北条経時が重篤となり、執権職を弟の北条時頼に譲る。そして閏4月1日に経時は他界してしまう。まだ23歳であり、将軍派との対立による多大なストレスも体調に影響した可能性が考えられよう。
 史書『保暦間記』によれば、時頼の執権就任に名越光時は「我は義時が孫なり。時頼は義時が曾孫なり」と言い放ったという。北条氏の伝説的存在となっていた2代執権北条義時との血縁の近さを根拠に光時は時頼より自分が執権に相応しいと考えた。光時は九条頼経に時頼排除を働きかけるが、先手を打ったのは時頼だった。名越光時謀反の噂が鎌倉に流れると軍勢を用いて鎌倉を戒厳令状態に置き、将軍御所を封鎖した。結果、光時は出家の上、時頼に降伏し、後に伊豆へ流罪となった。弟の名越時幸は自害に追いやられた。
 時頼は執権就任早々、得宗家のライバルであった名越家に打撃を与えることに成功した。そして、これは幕府創設以来、北条一門同士の政争で命が失われる初めての事例となった。
 さらに時頼は将軍派の後藤基綱、狩野為佐、千葉秀胤、三善康持を評定衆から解任。千葉秀胤は上総に追放され、三善康持は問注所執事からも解任されている。
 ただ、名越家と並ぶもう一つの将軍派の巨魁、三浦氏は北条氏に恭順の意思を示し、処分を免れた。三浦氏への処分を避けた理由は明確ではないが、源頼朝の死後、鎌倉幕府は北条氏と三浦氏が協調することで幾多の危機を乗り越えてきた。この時点においても北条・三浦の協調の先例が重視されたと見ることができよう。
 側近が幕政の中心から多数排除されたことにより、前将軍・九条頼経が鎌倉に留まることも不可能となった。7月11日、頼経は京に送還される。警護を命じられた三浦光村は涙を流し、「なんとしてももう一度鎌倉にお迎えしたい」と語ったと『吾妻鏡』は伝える。九条頼経と名越光時は鎌倉を去ったが、三浦氏が将軍派の領袖となり、執権派との対立は継続することになった。
 この年の一連の政争を寛元の政変、あるいは宮騒動という。 

宝治合戦

 九条頼経の帰京から約2か月後の9月1日、北条時頼は三浦氏の当主・三浦泰村に六波羅北方探題・北条重時の鎌倉帰還を打診する。重時は2代執権・北条義時の三男であり、この時点で六波羅北方探題を16年務める北条一門の重鎮であった。まだ20歳で政治経験の浅い時頼は重時を自身の補佐かつ後見人的立場として迎えることで、政権基盤を安定化させることを望んだと考えられるが、それは将軍派と三浦氏にとって自身の勢力の弱体化に繋がりかねない。泰村は時頼の提案に同意せず、この件は保留となった。
 しかし、北条時頼と三浦泰村の間では緊張緩和の努力が続けられた。宝治元年(1247)5月6日には泰村の次男・駒石丸が時頼の養子となることが決められた。さらに、5月13日に将軍・九条頼嗣に嫁いでいた時頼の妹・檜皮姫が亡くなると時頼は三浦泰村邸に移って喪に服している。
 この融和路線に異を唱えたのが時頼にとって母方の祖父・安達景盛であった。高野山で出家していた景盛は下山して鎌倉に入り、連日時頼邸に足を運んだ。三浦氏打倒を訴えたものと考える。
 安達氏と三浦氏はともに源頼朝の挙兵に加わった譜代の御家人であるが、三浦半島の武士団の棟梁であった三浦氏と比べて安達氏は頼朝の従者でしかなかった。この家格の差は世代交代し、得宗家の外戚が三浦氏から安達氏に変わっても不変であり、北条氏に次ぐ御家人ナンバー2は安達氏ではなく、三浦氏だった。安達景盛は九条頼経が帰京し、名越家の力が失墜したこの時が三浦氏を追い落とす絶好の機会と考えたのだろう。いつまでも三浦氏の風下に甘んじ続ける子の義景と孫の泰盛を厳しく叱責した。
 宝治元年(1247)6月5日、かねてよりの安達氏の挑発行為に対し、三浦氏が軍勢を集めたところ、安達勢が奇襲をしかけた。和田合戦以来となる鎌倉を戦場とする市街戦、宝治合戦の幕が切って落とされた。
 北条時頼と三浦泰村の間では直前まで和平交渉が行われていたが、戦端が開かれたことで時頼もなし崩し的に軍を三浦勢へと差し向けざるを得なかった。激戦の末、三浦一門は源頼朝が葬られた法華堂を最期の場所に選び、500人以上が自害したという。
 北条氏とともに創設以来、幕府を支えてきた三浦氏は滅び、前将軍九条頼経の鎌倉帰還の可能性も潰えた。時頼は望み通りに六波羅から北条重時を迎え入れ、連署に任じた。
 時頼は自身の政権を安定させるとともに北条氏の権力強化に成功し、得宗に権力が集中する得宗専制への道を開いた。そして、その得宗を北条氏に次ぐ地位を得た安達氏が支えていくことになる。 

源頼朝墓所。三浦一門が自害した法華堂はこの地にあったと推定される。

北条時宗、誕生

 鎌倉に入り、連署となった北条重時は、北条泰時・経時の歴代執権の旧居であった鎌倉亭に住んだ。鎌倉帰還からしばらくはまだ若い執権時頼に代わり、長年にわたって六波羅探題を切り盛りした経験を持つ重時が幕政を主導したと考えられる。
 建長元年(1249)年、時頼と重時の娘・葛西殿の婚姻が成立。それから2年後の建長3年(1251)5月、2人の間に待望の嫡子が生まれる。
 この子が後に8代執権として異国からの脅威と対峙する北条時宗である。

予告と余談

余談ですが、承久合戦の際の有名な北条政子の演説、実際には本人の言葉ではなく代読だったと言われます。
代読したのが今回の記事に登場する高野山からやってきたじいさん安達景盛ですね。

第3回「華麗なる一族・九条家の栄華と限界」に続きます。


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