見出し画像

【いざ鎌倉:人物伝】源頼家

あけましておめでとうございます。
令和3年初回の更新です。
本年もよろしくお願いします。

さて、今年は承久の変(承久の乱)からちょうど800年です。
実際に戦闘のあった6月頃にはこの連載も追いつき、終わっていれば良いなと考えています。
が、いまのペースでは厳しいような……
少しペースアップするかもしれません。
この節目の年にあたり、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」放映前年となる今年は一層、鎌倉時代の話で盛り上がっていきましょう!

さて、本題です。
新年初回ですが、今回は番外編「人物伝・源頼家」です
過去の人物伝は本編のスタートとなる建久3(1192)年より以前のエピソードを掘り下げるスタイルでやってきましたが、頼家についてはそれがほとんどありません。
書きたいエピソードもほぼ本編で書きました。
なのでいつもとは違った切り口で書いてみようとおもいます。

頼家政権の終焉を書いた本編前回は下記をどうぞ。

過去の人物伝まとめは下記です。

https://note.com/kiyosada/m/m8694a7982480

源頼家への評価

画像1

源頼家(建仁寺所蔵)

源頼家という人物の評価は長く「無能な2代目」でした。
偉大な父・頼朝の事績を継承できなかった、という点で見ればそう言えなくもないのかもしれません。
しかし、最近は研究の発展により少しずつ評価が見直されつつあります。

私も連載記事を書く中で、頼家を「無能な2代目」ではなく、「父の遺臣たちに囲まれて自分のやりたい政治をできずにもがく青年政治家」という姿が伝わるような表現を意識しました。
多分、そちらが実像に近いと思うのですよね。

「無能な2代目」像はほぼ幕府の史書『吾妻鑑』の記事によって成立しています。
しかし、『吾妻鑑』は頼家の生きた時代よりもっと後、北条氏によるいわゆる執権政治、得宗専制政治が確立してから書かれたものです。
これまで本編を読んでいただいて鎌倉幕府の構造を理解していただいた方はもうおわかりだと思いますが、頼家政権において北条氏は一貫して非主流派、つまりは野党のポジションです。
頼家の正当な評価が成されていると考えるべきではないでしょう。
そもそも『吾妻鑑』の政治スタンスは「頼朝様は偉大だったけど、その後の源氏一門がダメだったから幕府は北条氏が取り仕切るようになりました」というものなので、源氏一門への評価を『吾妻鑑』に委ねてしまうのは危険と思います。

私のこれまでの連載から、『吾妻鑑』の史観の頼家像から離れ、新たな自分なりの頼家像を描けるようになった人が少しでもいらっしゃったなら幸いです。

頼家政権はなぜ潰れたか?

最終的に頼家政権は北条氏が弟・実朝(千幡)を担いで潰すわけですが、北条時政や政子が何を言ったところで頼朝が正統な後継者を頼家と考えていたことは間違いありません。

第4回で書いた富士野の巻狩は頼朝が御家人たちに頼家こそ正統後継者であることを示す一大イベントでした。
曾我兄弟の仇討ちにより味噌がついてしまうわけですが。

第7回で書いた建久6(1195)年の頼朝上洛。
頼家を同行させたのは後鳥羽天皇と貴族へのお披露目でした。

こうして頼家こそ正統後継者であるということを父・頼朝はしっかりと幕府内外にアピールしているわけですが、結果的に頼家政権は内輪もめを繰り返し、安定政権とはなりませんでした。
その理由は、頼家政権が比企氏と北条氏の対立を抱え込んでいたことであり、その原因は結局のところ頼朝が北条氏を軽く見ていたということに尽きるんじゃないかと思います。

頼朝って北条氏に対しては「釣り合いの取れない田舎豪族だけど、政子を嫁に貰ってやったんだから感謝しろよ」って上から目線な感じがどこかあるんですよね。
時政とは微妙な関係だし。
でも比企氏はそうじゃない。
父親の代から付き合いあるし、乳母として自分を育ててくれたし、流人の間も仕送りして生活支えてくれたし。北条氏とは対照的に頼朝が感謝する側なんですよね。
この差が頼朝の考える将来の頼家政権の構想に形として明確に表れたと考えます。

頼朝は北条氏について縁戚としてそれなりに大事に扱っておけば十分と考えたかもしれません。
しかし、時政も政子もそれで満足するような人物ではなかった。
政治の中枢で権力を振るう野心があった。
この親子関係も微妙だということも以前に書きましたが、結局のところよく似た父娘でもあり、共通の敵(比企氏)に対処するには冷静にお互いを利用する。
北条父娘の野心を頼朝が見誤ったというのが、頼家政権崩壊の根本原因と思います。

なので、結局、頼家自身の能力でどうにかなるような話ではない構造的な欠陥があったという話じゃないでしょうか。
10代後半から20代前半の頼家にこの欠陥に対処する能力を求めるのは少々酷でしょう。

頼家の政策を再確認

以下、頼家の政策を具体的に再確認したいと思います。
詳細は13回をお読みください。

「父の代からの宿老に囲まれてもがく頼家」を象徴するのが、失敗に終わった御家人所領の再計算、再分配政策ですね。
貰いすぎの御家人がいるんじゃないかと再点検するという視点は悪くなかった。
若手や新興の御家人にもっと所領を与えてやりたいという考えも理解できる。
しかし今の世の中でもいえますが人件費削減はやはり抵抗が強い。
しかも、幕府創業の功績者たちから削減することになるわけですからね。
父の代までは戦争で敵(平家・奥州藤原氏)から所領を得れば良かったわけですが、平和な時代になるとそうはいかない。
戦時から平時への転換というのはいつだって難しい。
豊臣秀吉は朝鮮出兵という外征で問題を先送りにし、江戸幕府も武断政治から文治政治に転換するには100年近くかかっていますからね。

栄西の招聘は本編でも書いた通り成功した政策の一つですね。
京に建仁寺を建立する際も後援しました。
曹洞宗の発展にも繋がり、今日にも大きな影響を与えていると言えます。
栄西は実朝とも親交がありますので、引き続き本編で触れることになります。

蹴鞠への没頭は『吾妻鑑』で強く批判され、私も本編では趣味的側面で書きましたが、これはこれで京の朝廷に軽く見られないためであったり、外交的付き合いという政治的側面もあろうかと思います。
この時代の武士は江戸時代の武士とは違って、まだまだ公家社会と地続きというか重なる部分も大きいので、幕府のトップともなれば蹴鞠も教養の一つと考えてもおかしくはないんじゃないでしょうか。
何度も言っていますがこの頃の鎌倉武士はヤンキーの集まりみたいなものなので、武芸(喧嘩)と馬(バイク)は尊敬の対象ですが、蹴鞠はそうじゃなかったと言えば理解も容易でしょう(笑)。
このあたり、武士でありながら読み書きができた梶原景時が周囲から浮き上がっていたのとよく似た構造があります。
なお、頼家が京から呼び寄せた蹴鞠名人たちは政権崩壊とともに京へと帰されました。

後鳥羽院の忠臣としての頼家

あと、後鳥羽院との関係は弟・実朝の方がエピソードは多いですが、頼家も後鳥羽院政との協調を非常に大事にしています。

画像2

後鳥羽上皇(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)

まず、建久10(1199)年、三左衛門事件に関連して首謀者とされた後藤基清の讃岐守護職解任
これは「頼朝が定めたことを改めた最初の事例」と『吾妻鑑』は批判的に扱いますが、後藤基清は源通親襲撃を計画したと朝廷に逮捕されたわけですから、解任は至極当然のこと。
「父・頼朝が定めたこと」という幕府の内部事情より、後鳥羽院への配慮を優先しました。
翌年、佐々木経高を淡路・阿波・土佐3か国の守護職から解任したのも同じですね。経髙は兵を集めて京を騒がせたことで後鳥羽院の怒りを買いました。
頼家の姿勢は、「幕府創業に功績があって父に信頼されていたとしても、後鳥羽院に迷惑をかけた御家人は容赦なく処罰する」という考えで一貫しているのがわかります。

さらに本編で触れる機会がありませんでしたが、頼家は御家人が京に出張し、御所や院を警護する京都大番役を重視しました。旅費・滞在費が自腹の大番役は御家人の負担が大きく、忌避されがちでしたが、頼家は勤めをしっかりと果たすよう御家人に通達を出しています。
関東独立の気風が強かった御家人たちに京都大番役の意義と自分たちの職務であるという自覚を定着させたのは頼家の功績の一つと言えます。

以上のことから、頼家は後鳥羽院を敬い、その院政を支える重要性を認識していたと言えます。

最後に

頼家政権の解説について第10回~17回まで全8回も費やすことになるとは当初考えていませんでした。
御家人間の抗争を中心にあっさり4、5回で終わるかなと思ったんですが、栄西を後援した話や蹴鞠の話など頼家自身の取り組みも色々紹介したいなと思っている内に長くなりました。
頼家が暗君という単純な歴史の見方には私は懐疑的ですが、だからと言って名君なのかと言われればそう言えるだけの実績も不足している。
源頼家という人は「普通の人」であったかもしれませんが、そういう「普通の人」の苦心や悪戦苦闘の歴史も私は結構好きだったりします。

次回予告

最近記事が長めなので次回は短めの番外編コラムにします。
「源実朝政権の発足」
新政権の体制と性格を確認します。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?