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【大河ドラマ】鎌倉殿の13人 第21回&第22回感想

おはようございます。
今回も2週まとめての感想です。
過去の感想・解説は下記よりどうぞ!

さて、第20回。
ドラマ上の大きなトピックは「八重の死」ですが、八重が義時の妻になったというのはとても史実とは思えませんので、特にここでは触れることがありません。
個人的には金剛(北条泰時)を産んですぐ亡くなると予想していたので、意外と出番が長かったという感想。

ここで触れておきたいのはドラマではあっさり流された奥州合戦

「頼朝の出陣」に意味がある

合戦前の奥州藤原氏ですが、藤原秀衡の没後、平泉に潜伏していた源義経を討ったことで、鎌倉に敵対する意志が無いことを示しました。
頼朝は再三奥州征伐の宣旨を朝廷に求めましたが、義経の死によって後白河院はその必要を認めず、戦いは鎌倉殿による「私戦」として始まることになります。

それでは源頼朝はなぜ義経の首が届けられても矛を収めなかったのか?朝廷の許可なく強引に開戦したのか?

これは「源頼朝の出陣」というイベントが鎌倉勢には必要だったと考えるべきでしょう。
頼朝が源平の戦いで戦場に立ったのは、治承4年(1180)年の挙兵の初期段階のみ。その後、戦場の最前線で御家人を指揮したのは源範頼・義経の弟たちで頼朝が鎌倉を出陣することはなかったわけです。
なので、頼朝と戦場を駆け巡ったのは最古参の一部の御家人のみで大多数の御家人にはその経験がなかった。
これからの安定した政権運営には「頼朝の指揮で戦う」という共通体験が必要であり、義経との兄弟決戦が不発に終わった以上、多少強引でも奥州藤原氏相手の戦争が必要だったのだと思います。

続く第22回でも頼朝に代わって範頼を鎌倉殿に担ごうとする陰謀が描かれますが、この範頼の信望もやはり「共に戦場を駆け巡った」という共通体験あってこそでしょう。戦場で苦楽を共にするというのは武士にとって非常に重要であったと考えます。

なお、奥州合戦は源頼朝にとって先祖である源頼義の前九年合戦を再現する政治ショーでもありました。
軍旗の寸法、「9月17日」という戦争終結の日付、厨川という終戦の地、泰衡の首の晒し方等、様々な点で頼朝は前九年合戦を模倣し、自身の権威向上に利用しました。
それができるだけの実力差が鎌倉勢と奥州勢にはあったことがわかります。
この逸話はロシアのウクライナ侵攻において、ロシアが第二次大戦の戦勝記念日である5月9日に勝利宣言をする、大きな成果を上げるという目論見が実現しなかったことが思い起こされたりもしますね。

さて、先祖・源頼義に並ぶ武功を天下に強烈に意識させ、その上で頼義の官職「鎮守府将軍」を超越する「大将軍」を頼朝が望み、それに朝廷が応える形で任命したのが第22回における「征夷大将軍」であったと理解すれば歴史の流れを大きく掴むことができますし、ドラマでも頼朝が政子と小躍りするように喜んだ意味も見えてくるかと思います。

第22回では後白河院が崩御し、後鳥羽天皇と千幡(源実朝)が初登場。
戦争の時代の終焉と後白河院の崩御で新しい時代、ドラマにとっては後半戦の幕開けのようにも感じられました。

佐藤二朗演じる比企能員いいキャラしてますよね~

さて、話が1192年になりましたので私がnoteに連載したシリーズに大河が追いつきました。
より深くこの時代を理解したい人は読んでもらえると嬉しいです。
第22回と重なるのは下記4つの投稿になります。


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