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【異国合戦(6)】バトゥの西征——モンゴルのルーシ・東欧侵攻

 モンゴル帝国の話が続きます。
 西へと進撃するモンゴル帝国軍。

 前回の記事は下記よりどうぞ。


ルーシ侵攻

 前回記事で書いた南宋侵攻と同時に決断され、実行されたのが有名なロシア・東欧遠征である。「バトゥの西征」としても知られるとおり、この遠征の総司令官はチンギス・ハンの長男ジョチの次男であるバトゥが務めた。

バトゥ(『集史』より)

 ジョチがチンギス・ハンより先に他界したことでその後継者争いと無縁であり、遊牧地が帝国の最も西側で金国との戦争にも加わらなかったことから長く帝国の政治の中心からは離れていたジョチ家であったが、この遠征では中核を担うこととなり、大きな存在感を示すことになる。

 バトゥを支える副司令官には皇帝オゴタイの長男・グユク、亡きトルイの長男・モンケが任命された。さらにチャガタイ家からはチャガタイの孫・ブリらが加わる。このように遠征軍は諸王家のプリンスが従軍する本格的かつ大規模なものとなった。さらにこの陣容から帝国の征服戦争がチンギス・ハンの子から孫・曾孫へと世代交代したことが見て取れる。

 1236年、西征軍はまずヴォルガ川中流域を治めるヴォルガ・ブルガールへと襲い掛かかり、これを臣従させた。同時に大小様々な部族に分裂していたキプチャク草原の諸部族の多くを戦うことなく吸収し、巨大で統制された軍団へと再編成した。
 兵力を増強したモンゴル西征軍は1937年秋、ウラル山脈を越え、ついに今日の「ロシア」の語源となった地域ルーシへと侵攻する。当時のルーシはキーウ・ルーシ(キーウ大公国)が衰え、諸公国が分立する時代に突入していた。これによりルーシ諸公は統一的な指揮を欠いたまま、モンゴルの脅威に襲われることになった。
 
 まずモンゴルは北東ルーシのリャザン公国に攻め入り、ヴォロネジ川の戦いでリャザン軍を撃破。12月16日から6日間の包囲戦を経て首都リャザンを陥落させる。リャザン大公ユーリー・イゴレヴィチも命を落とした。
 勢いに乗るモンゴル軍は北西に進路を取る。ウラジーミル・スーズダリ大公国に侵攻し、1238年1月20日にモスクワが陥落。なお、当時のモスクワはルーシの中心ではなく、地方の小都市に過ぎなかった。2月4日にモンゴル軍はウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルに到達。ウラジーミルこそが当時のルーシ最大の都市であったが、モンゴル帝国はわずか5日間でこれを攻め落とした。
 このようにルーシの諸都市はモンゴル軍の前にあっさりと陥落した。これまでモンゴル帝国が相手にしてきたホラズム・シャー国や金国と比較すれば、当時のルーシ諸国は軍事、経済、人口規模で劣る「発展途上国」に過ぎない。堅牢な城門・城壁に囲まれた都市要塞を攻め落とす経験を積んできたモンゴル軍を防ぐにはルーシ諸都市の守りは脆かった。
 3月4日、首都から逃亡したウラジーミル大公ユーリ2世が軍を再編成し、シチ川にて野戦を挑むが、モンゴル軍はこれを返り討ちにし、ユーリ2世を戦死に追いやった。これによりウラジーミル・スーズダリ大公国は抵抗の意思と戦力を失い、モンゴルに臣従することになる。
 
 この後、モンゴルはルーシ攻略を一時中断する。南部のステップへと移動し、カフカス北部や反旗を翻したヴォルガ・ブルガールの遊牧民討伐に兵を振り向けることになる。
 1239年、総司令官バトゥとオゴタイ家のグユク、チャガタイ家のブリが酒席で口論になったという。本国にて報告を受けた皇帝オゴタイは激怒し、息子のグユクに帰国を命じた。トルイ家のモンケも監視する立場で随伴することになり、後に皇帝となるグユクとモンケの両名が遠征軍から離脱することになった。
 同年秋にはルーシ南部攻略を開始。チェルニーヒウ公国、ペレヤースラウ公国を瞬く間に滅ぼした。そして1240年12月6日、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が治めていた「ルーシの聖地」で現在のウクライナの首都キーウを陥落させる。キーウ・ルーシの首都であったキーウの陥落と破壊はルーシに大きな衝撃を与えるとともに、モンゴルへの屈服を決定的なものとした。
 ルーシ諸国はこの後、「タタールのくびき」と呼ばれる長いモンゴルの支配に置かれることになるが、それが形となるのはもう少し先のことである。モンゴル遠征軍はさらに西進し、ハンガリーとポーランドへ侵攻する。

ルーシの市場を訪れたモンゴルの徴税官(バスカク)を描いた絵画

モンゴルの恐怖、欧州へ

 ルーシを蹂躙したモンゴル軍は二手に分かれ、さらに西を目指した。1241年、バトゥ率いる本隊がハンガリーへ、チャガタイ家のバイダル、バトゥの兄・オルダらが率いる支隊がポーランドへと侵攻する。
 4月9日、ポーランドに侵攻した分隊がポーランド大公ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ騎士団連合軍をリーグニッツの戦いで撃破した。この戦いはワールシュタットの戦いという名称でも知られる。ヘンリク2世は戦死し、モンゴル軍の完勝だった。
 続いて2日後の4月11日、バトゥの本隊がハンガリー王ベーラ4世率いるハンガリー軍をモヒ平原にて破った。ベーラ4世はオーストリアを経由してザグレブへと到り、最後はアドリア海の孤島へ逃れることになる。逃亡中、ベーラ4世はローマ教皇グレゴリウス9世神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世フランス王ルイ9世らに援助を求める手紙を送っている。
 
 この頃、教皇グレゴリウス9世と皇帝フリードリヒ2世は激しく対立し、皇帝が教皇により破門される事態に陥っていた。モンゴルの脅威が東から迫っていること、ポーランド・ハンガリーを救援する必要があることは教皇も皇帝も認識していた。しかし、両者の対立は、対モンゴル防衛の共同戦線構築を大いに遅らせることになった。
 1241年5月以降、モンゴル軍はオーストリア東部にも姿を見せるようになり、ドイツ諸侯に緊張が走ったが、モンゴル軍はオーストリア・ドイツ方面に深入りすることはなく、ハンガリー王ベーラ4世を追うように、主力を南へと振り向けた。1242年春にはセルビア王国へと侵攻している。セルビア侵攻は皇帝オゴタイの6男・カダアンが指揮し、今日のセルビア共和国の首都・ベオグラードもこの時にモンゴルに占領されたと考えられる。
 
 向かうところ敵なしで快進撃を続けるバトゥの西征軍であったが、その軍事作戦は突如として幕引きを迎える。
 前年の1241年12月11日に第2代皇帝オゴタイ・ハーンが崩御。本国から遠征軍に帰還命令が下された。
 これにより、モンゴルはハンガリー、ポーランド、セルビアの占領地を放棄し、東へと去った。モンゴル帝国が西欧に本格的に侵攻することは遂に無く、この後もその機会は訪れなかった。

その時日本では

 今回も日本とモンゴルの出来事を一つの年表にまとめます(太字はモンゴルの出来事)。

1236年 バトゥの西征軍がモンゴルを出発
1237年 モンゴル軍がルーシに侵攻
1238年 ウラジーミル陥落
    
将軍九条頼経、執権北条泰時らを引き連れて上洛
1239年 後鳥羽上皇が隠岐にて崩御
1240年 キーウ陥落
1241年 ハンガリー、ポーランドに侵攻
    皇帝オゴタイ・ハーン崩御
1242年 四条天皇崩御、後嵯峨天皇践祚
    セルビアに侵攻
    バトゥ西征軍が撤退を開始
    北条泰時死去

余談

 余談ですが、モンゴル軍がポーランド・ドイツ騎士団連合軍に勝利したワールシュタットの戦いの「ワールシュタット(Walstatt)」は、「戦場に倒れた者の場所」を意味するそうです。
(下記サイト参照)

 書籍でもネットでも「死体の山」、「死体の町」と訳するものをよく見かけますが、これが誤訳、あるいは誤訳に近いという説明は上記サイトでよくわかります。

 フビライの登場までモンゴルの話が続きます。
 今回もお読みいただいてありがとうございました。
 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。


第7回につづきます。


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