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【いざ鎌倉(8)】九条兼実vs源通親 建久7年の政変

前回は、建久6(1195年)3月~6月の源頼朝の京、南都での動きを解説しました。

6月25日に京を発った頼朝一行は、7月8日に鎌倉に戻ります。

今回は、幕府ではなく朝廷の話。
頼朝が去った後の京の政治の動きを解説していきます。


中宮・任子の懐妊

源頼朝は娘・大姫の入内工作を進めるにあたり、それまで提携関係にあった九条兼実と距離を置き、そのライバルであった源通親ら「宣陽門院派」に接近したことは前回解説しました。

これは源通親の妻の高倉範子が後鳥羽天皇の乳母であり、後宮に影響力を持っていたからです。
それ以外にも九条兼実のキャラクターの問題も当然あるでしょう。

九条兼実

たびたび言っていますが、九条兼実の政治スタンスは「藤原道長の頃の摂関政治全盛期を取り戻す」です。
そのためには兼実は、自身の娘を天皇の后とし、皇位継承者を産ませて外戚の地位を確立する必要があります。ライバルとなりうる頼朝の娘・大姫の入内に協力することはありえません。

源頼朝と九条兼実の同盟関係は、「日本一の大天狗」といわれた後白河院の力を抑え込むためのものでした。
後白河院の崩御により、両者にとって提携する重要性は低下していたというのも事実でしょう。
兼実は、頼朝が自身のライバルである源通親に接近しようと、この頃はまだ余裕がありました。
娘である中宮・任子が後鳥羽天皇の子を懐妊しており、天皇の外戚の座があと一歩に迫っていたからです。

後鳥羽天皇の第一皇子誕生

兼実は皇子の出産を祈り、盛大な祈祷行事を繰り返し実施します。
しかし、建久6(1195年)年8月13日、祈祷の甲斐なく、任子が産んだのは皇女(春華門院昇子内親王)でした。
皇子を得られず、頼朝という同盟者を失った九条兼実は政治的に失速していくことになります。

兼実が任子の再度の懐妊を願い、頼朝が娘・大姫の入内の進展を鎌倉で期待する中、この時、後宮にはもう一人後鳥羽天皇の子を懐妊している女性がいました。

その女性が源在子
源通親の妻・高倉範子の連れ子で通親の養女でした。
在子は12月に後鳥羽天皇の第一皇子為仁を出産します。
後の土御門天皇です。
これにより源通親は朝廷内の足場を確かなものとし、将来、天皇の外祖父として権勢を振るう道を開きました。

一方、天皇の外祖父として朝廷の実権を握り、摂関政治全盛期を取り戻すという九条兼実の夢は打ち砕かれます。

そして、兼実と通親の外祖父の地位を巡る争いの中、通親を通して入内工作を進め、鎌倉へと帰った源頼朝はその争いのスタートラインにすら立てず、蚊帳の外にいました。

建久7年の政変

建久7(1196)年3月23日、兼実に近かった左大臣・三条実房が亡くなり、兼実の求心力は完全に地に落ちます。
そして11月、朝廷を揺るがす政変へと繋がります。

11月23日、突如、中宮・任子は宮中から退去させられ、25日に兼実は関白を罷免されました。
合わせて兼実の2人の弟、慈円は天台座主を、九条兼房は太政大臣を辞任に追い込まれています。
九条一門はこの政変により、徹底的に排除されることになりました。

プライドの高すぎる九条兼実は元々朝廷内に味方の貴族は少なく、求心力を落としたこの時には最早誰も擁護する存在はいなくなっていました。
かつての同盟者・源頼朝もこの政変を黙認しています。
源通親との間に「黙認するなら大姫入内に協力する」との密約があったとも言われます。
それが事実なら、頼朝はまだ通親を経由した入内工作に期待を持っていたことになります。

「騙されていた」といっていいかどうかわかりませんが、既に将来の外祖父としての地位を確保していた通親が頼朝の願いを真面目に取り合う気がなかったのは間違いないでしょう。
それでも莫大な貢物をし、入内工作を進めてきた頼朝はもはや引くに引けない状況にあり、兼実を見殺しにする以外の選択肢はありませんでした。


後鳥羽天皇 帝王への目覚め

後鳥羽天皇

通親は失脚した兼実を流罪に追い込もうとしますが、これは実現しませんでした。
後鳥羽天皇が反対し、天皇としての徳を示したとされます。

しかし、最近は、兼実の排除を後鳥羽天皇自身が主導したという説も有力です。
治天の君を中心に朝廷の政治を進めたい後鳥羽天皇と、摂関政治全盛期の復活を目指す九条兼実の政治路線の対立は明らかです。
後鳥羽天皇の思い描く理想の政治に兼実の出番は必要ありません。
それなら何故兼実の流罪に反対したのでしょう?
それは九条家を徹底的に叩き潰すより、それなりの力で存続させ、近衛家と並立させたほうが摂関家の力を削ぐことができると考えたからではないでしょうか。

2つの摂関家は後に九条から一条と二条、近衛から鷹司が分かれ、「五摂家」となります。
5つに分かれた摂関家には最早、九条兼実が思い描いた「摂関家全盛期を取り戻す」という夢を実現させるような力はどこにも残されていませんでした。

九条兼実主導の政治はわずか4年で終わり、以後、源通親が後鳥羽天皇を支え、朝廷を主導していくことになります。
そして、後鳥羽天皇はこの時、17歳となり、天皇としての自覚と政治への関心を強めつつありました。

次回予告

九条兼実は以後、政界に復帰することはありませんでした。
次回は「人物伝・九条兼実」です。

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