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【いざ鎌倉(14)】天才・後鳥羽上皇、理想の美しき世界

今回の主役は後鳥羽上皇です。
源頼朝の死の1年前、建久9(1198)年に第一皇子であった土御門天皇に譲位し、17歳にして院政をスタートさせます。
今日の上皇陛下とは全くの逆。退位してから一層エネルギッシュに活動を展開する後鳥羽上皇を解説します。

前回記事はこちら。

後鳥羽院の熊野詣

天皇在位中、後鳥羽院はほとんど京を出ていません。
第7回で触れた東大寺大仏殿の再建供養への行幸は例外です。

譲位したことで朝廷の儀礼や政務から一定程度の自由を得ることになった後鳥羽院は、洛中洛外の寺社参拝を熱心に行うようになりますが、中でもライフワークとして重視するようになるのが、熊野詣です。

熊野詣とは、現在の和歌山県にある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を参拝することです。
浄土信仰の広がりとともに平安時代末期から盛んとなり、特に歴代の上皇・法皇は好んで熊野を訪れました。
京から往復でおよそ700km。
多い時には同行する貴族、女房、従者が800名を超える一大行事でした。

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(熊野那智大社に隣接する那智山青岸渡寺三重塔と那智の滝)

譲位した建久9(1198)年8月、後鳥羽院は初めての熊野詣を行います。
これを皮切りに後鳥羽院は24年の院政の期間中、28度の熊野詣を行っています。
毎年必ず実施し、時には年2回熊野に参拝するというのは歴代の院で最も頻度が高く、後鳥羽院の熊野信仰の篤さをうかがい知ることができます。
勿論、宗教的意味合いだけでなく休暇や趣味も兼ねてますから、現在も天皇陛下が毎年御用邸にご静養に足を運ばれるのと似た部分もありますね。

後鳥羽院政確立への道

後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位は土御門帝の外祖父・源通親の主導であることは間違いありません。
九条兼実を蹴落とし、源頼朝を翻弄した源通親は政界の実力者です。
譲位した時点で後鳥羽院はまだ17歳。
青年となった後鳥羽院は政治への意欲を強めていましたが、まずは通親の影響力を削がないことには、自由に院政を行うことはできません。
その第一歩が建久七年の政変で没落した九条家の復権です。

正治元(1199)年、後鳥羽院の意向により、通親のライバルだった九条兼実の息子・九条良経が左大臣に昇進します。
翌正治2(1200)年正月には、九条兼実の弟・慈円(元・天台座主)の謹慎も解かれ、院御所での加持祈祷に召し出されるようになりました。
こうして九条家は復権を果たし、九条・近衛の摂関両家が並び立って後鳥羽院政を支え、通親をけん制する体制が敷かれます。

後鳥羽院の公家統制の思想は「勢力均衡」です。建久七年の政変で九条家を過剰に追い込まなかったのも摂関家で近衛家だけを突出させない意味がありました。
そして、今度は通親をけん制するために、九条家を再び政治の中央へと戻します。
後鳥羽院はさらに通親の影響力を削ぐ決定的な手を打ちます。

同年4月、通親の養女・在子を母に持つ土御門天皇の皇太弟として、高倉範季の娘・重子を母に持つ守成親王(後の順徳天皇)を立てます。

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順徳天皇

これは今上陛下の皇位継承順位第一位の皇嗣として秋篠宮文仁親王が立てられるのとは全く意味が違います。
土御門天皇はまだ5歳。
この先、后を迎え、男子が生まれる可能性は大いにありましたし、体調を崩していたわけでもありません。
守成親王が皇太弟に立てられることは、後鳥羽院による「土御門天皇の子孫に皇位を継がせる気はない」という宣言であり、土御門天皇の将来の院政も否定するものでした。
これにより、源通親が外祖父として支える土御門天皇の皇子が次代の天皇となる可能性は大きく減少し、「源博陸」(源氏の関白)と称された通親の政治力は、大きく低下することとなりました。

後鳥羽院にとっての和歌

万葉集の時代から令和に至る今日まで、我が国には歴代天皇の詠んだ和歌「御製」が数多く残されています。
天皇が、自身の治世の下にある世界を言葉にし、和歌として表現することは「政治」です。その和歌が美しければ美しいほどに世界が美しく豊かであることを証明することとなり、万民はその世界で幸せな生活を送っていることを意味します。
天皇は和歌によって自身の正統性を示し、国家・国民と繋がっていることを宣言するのです。
天皇が和歌を詠むというのは決して趣味や娯楽ではありません。

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令和2年1月16日に行われた歌会始の儀

わざわざ天皇と和歌についての解説をここに書いたのは、ここがわからないと後鳥羽院の和歌と『新古今和歌集』への情熱が理解できないからです。
「和歌を詠むことで世界を表現し、正統性を示す」というのが、重要な点です。
三種の神器の宝剣を欠いて即位した後鳥羽院にとって「正統性」は生涯のコンプレックスです。

和歌によって自身の正統性を確認することは、後鳥羽院にとってこれまでの天皇とは違った重要性を帯びます。
後鳥羽院は譲位した後、様々な分野で才能を開花させますが、和歌が別格なのは自身の治世を表現するものであり、文字として後世に残すことができるものだからです。
他に才能を発揮した琵琶、蹴鞠や相撲は決してこの条件を満たしません。

「宝剣を欠いて即位した私が治めても世界はこれだけ豊かで美しい」

後鳥羽院による和歌はその記録です。
正統性にコンプレックスのある後鳥羽院は和歌によって最大の自信と安心を得ることができるのです。
世界の美しさが表現されていれば、自身が詠んだものでなくてもいい。
臣下の和歌の美しさも自身の統治が生んだ世界の美しさの証明なのだから。
後鳥羽院による美しい世界の記録、それは最終的に『新古今和歌集』として結実することになります。

史上最大にして空前絶後!『千五百番歌合』

さて、その後鳥羽院が歌を詠んだ記録が確認されるのは譲位してからです。
院政の開始とともに後鳥羽院は歌人としての道を歩み始めることになります。

正治元(1199)年には源通親と和歌のやり取りがあることが確認されており、後鳥羽院を和歌の世界に導いたのは通親であるとの説が提起されています。
また、同年と翌年の熊野詣の道中でも歌会が開催されたことが記録されています。

後鳥羽院は情熱と努力で急速にその和歌の才能を開花させます。
まだ和歌を詠むようになってから2~3年しか経っていないと考えらえる建仁元(1201)年、後鳥羽院は史上最大にして空前絶後の企画、『千五百番歌合』を主催します。

これは当代一流の歌人30名に1人100首ずつ和歌を詠進させ、集まった3000首を1500組に分けて優劣を判定するという企画です。
大規模な歌合としては建久5(1194)年頃に九条家が主催した「六百番歌合」がありましたが、それを凌駕し、そしてこの後もこれを上回る規模の歌合は行われていません。

後鳥羽院自身も歌人として参加し、他には惟明親王、左大臣九条良経、内大臣源通親、天台座主慈円、藤原定家、二条院讃岐など政府高官から宗教界のトップ、女流歌人まで幅広い立場の歌人が参加する和歌界のオールスター戦となりました。
なお、当時の和歌界は、万葉集を重視し伝統を重んずる六条藤家の派閥と新しい和歌を追い求める藤原定家ら御子左家の派閥がしのぎを削っていました。
後鳥羽院自身は、御子左家の流れの歌風でしたが、こういった行事で六条藤家を排除することはありませんでした。

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当時の代表的歌人・藤原定家

さらに後鳥羽院は判者(審査員、ジャッジ)も務め、判詞と呼ばれる優劣の理由を示すジャッジペーパーも記しています。
一流歌人とともに和歌を詠み、そしてそれを評価することができる。
学習からわずか2、3年で国内トップレベルの歌人へと成長する後鳥羽院はまさに和歌の天才でした。

『千五百番歌合』を主催する前年にも後鳥羽院は当代一流の歌人たちに応制百首『正治初度百首・後度百首』として和歌を詠進させていました。
『千五百番歌合』により3000首の和歌が新たに提出されたことで、後鳥羽院によるビッグプロジェクトの準備が遂に整います。
建仁元(1201)年7月、勅撰和歌集編纂のための機関「和歌所」が設置されます。
後に『新古今和歌集』と名付けられ、後世の和歌にも大きな影響を与える勅撰集の編纂がここに始まります。

次回予告

次回は再び幕府の話に戻ります。
最近流行りの兄妹の話を。

後鳥羽院はこの連載の中心ですから、今後何度も触れることになりますが、やはり存在感が際立ってくるのは譲位してからですね。
後鳥羽院と新古今集については少し先に続きを書きます。


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