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【異国合戦(7)】モンケ・ハーンの即位とフビライの登場

前回はモンゴル帝国によるルーシ・東欧侵攻について書きました。

 今回は2代皇帝オゴタイ崩御後のモンゴルについて。


ドレゲネの幸運

 1241年12月11日、モンゴル帝国2代皇帝(大ハーン)のオゴタイ・ハーンが急死する。
 オゴタイの死後、帝国の権力を握ったのは第6皇后のドレゲネであった。モンゴル帝国の最高議決機関クリルタイは女性の出席を認めており、皇后と宮廷の女性たちは政治に近い立場にあった。しかし、その上で第6皇后にすぎないドレゲネが政治を主導するに至ったのは様々な偶然が重なった故に他ならない。

 まず、オゴタイは当初、後継者に三男・クチュを考えていたが、そのクチュは南宋遠征中に陣没していた。クチュの死後はその子のシムレンが後継者として扱われていたが、オゴタイ崩御の時点においてはまだ幼かった。
 オゴタイを支えてきた兄・チャガタイもオゴタイの後を追うように、まもなく亡くなった。強力な軍事力を保有するジョチ家のバトゥは遠くハンガリーにあり、トルイ家の有力者モンケも東欧からの帰還の途上にあった。
 皇族の有力者たちが他界、あるいはモンゴル本土を不在にする権力の空白の中、存命の皇后の中で最年長のドレゲネが権力を握る環境が創出された。さらにドレゲネにとって幸運なことに自身が産んだ皇子グユクがルーシ・東欧遠征中にバトゥといさかいを起こし、本国近くまで帰還していた。
 一時、チンギス・ハンの末弟であるテムゲ・オッチギンが皇位をうかがう動きを見せるが、ドレゲネはこれを退け、監国(摂政)として国政を総攬しつつ、息子のグユクを皇位に就けるべく政治工作を進めた。 

第3代皇帝グユク即位

 グユクは先帝オゴタイの長男ではあったが、第6皇后の産んだ庶子であり、父の治世下では全く後継者扱いされてこなかった。母・ドレゲネの工作以前は、支持勢力は皆無に等しかったと考えられる。ドレゲネが帝国の権力を握っても皇位継承は容易に進まず、皇帝不在のまま4年以上が過ぎた。

 グユクの即位に最も反発したのがモンゴル高原の遥か西方、ヴォルガ川河畔に幕営を置いたジョチ家のバトゥであった。バトゥはハンガリーでオゴタイの訃報を聞いたのち、軍を東欧・ルーシから引き揚げたものの、モンゴル本土には戻らず、ドレゲネ・グユクと距離を置いた。オゴタイが生前考えた後継者ではなく、加えて西征の最中に自身に反発して口論となったグユクをバトゥが支持しないのは当然だったとも言えよう。
 バトゥは西征に大軍を率いて従軍し、父方・母方双方でいとこ関係にあった親密なトルイ家のモンケを推した。ドレゲネはグユクを皇帝にするためのクリルタイ開催を何度も試みたが、バトゥはその召集を拒み続け、キプチャク草原を動かなかった。
 ルーシ・東欧西征軍は既に解体していたものの、キプチャク族を配下に組み込み、ルーシ諸公を臣従させるバトゥは強力な軍事力を保有するチンギス・ハン孫世代の最有力者であり、その存在は無視できるものではなかった。
 
 しかし、ドレゲネはトルイ家の中心でありトルイの正妃であったソルコクタニ・ベキの支持を取り付けることに成功し、1246年になってついにクリルタイ開催を強行する。バトゥは体調不良を理由にクリルタイ出席を見送ったが、自身が支持したトルイ家のモンケもクリルタイに出席することになった以上、ドレゲネ・グユク親子と対立を続けることは意味がなく、最終的にはバトゥの兄・オルダや弟・ベルケがクリルタイに出席し、ジョチ家もグユクの皇帝即位を認めた。
 グユクの即位式にはモンゴル諸王家だけでなく、イラン、イラク、ルーシなど各地の王侯や使節も参加した。さらに、ローマ教皇の使節としてヴェネツィアの修道士プラノ・カルピニも出席している。カルピニはモンゴルの侵略を諫める親善使節としてまずバトゥを訪ねたが、新たに皇帝となるグユクの所に赴くよう指示され、1246年7月にカラコルム近くのグユクの幕営地に至り、タイミング良く即位式に出席することとなった。
 カルピニのモンゴル訪問は、単なる親善目的ではなく西欧にとって未だ謎多きモンゴルを調査する目的もあったと思われるが、要人の多数集う即位式に出席できたことはカルピニにとってモンゴルを知る上で大変に幸運であった。カルピニは帰国後、『われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴル人の歴史』と題する詳細な報告書を教皇に提出し、西欧各地でモンゴルについての講演を行った。カルピニによってモンゴル帝国は初めて西欧に「紹介された」といえよう。
 ただ、カルピニに謁見した新帝グユクは「チンギス・ハン以来、日の没する所から日の沈む所までその統治権はモンゴルに与えられている」との姿勢を崩さず、教皇とヨーロッパ諸国の臣従を求める返書を送った。モンゴルと西欧の友好は成立せず、モンゴルは西欧諸国にとって引き続き恐怖の存在であり続けた。 

グユクの肖像

第4代皇帝モンケ即位

 グユクの治世は長くは続かなかった。まず、母ドレゲネが即位式からわずか2か月後に亡くなった。自分の子を皇帝とするべく奔走し、本懐を遂げた上で世を去った。そして、それから1年半後の1248年4月、モンゴル本土から西へと向かう途上でグユクは突如崩御した。西進の目的は、イラン方面への遠征とも不仲のバトゥ討伐のためともいわれる。

 再び帝位が空位となり、ドレゲネの例にならってグユクの皇后オグルガイミシュが監国となった。オグルガイミシュを中心とするオゴタイ家とチャガタイ家は第2代皇帝オゴタイの孫の中から新帝選出を進めようとした。しかし、帝国の最有力者となったジョチ家のバトゥが再びオゴタイ家からの皇帝選出を拒否する。
 バトゥは自らが皇帝となる意志は見せず、今回も盟友であるトルイ家のモンケを推した。ジョチ家とトルイ家はモンゴル本土から離れた中央アジアにおいて独自にクリルタイを開催し、モンケを新帝に指名した。オゴタイの孫たちは年少で、帝国を率いるには力量不足というのがバトゥの主張であった。
 
 こうして帝国はチンギス・ハンの4子から生まれた4つの王家が二分して対立する構図が生まれた。第2代オゴタイの即位以来、政権を握ってきたオゴタイ家・チャガタイ家、それに対抗するジョチ家・トルイ家という図式である。ただ、ルーシ・東欧遠征で勢力を拡大したジョチ家とチンギス・ハンの遺産を最も多く引き継いだトルイ家が手を結ぶのだから、この綱引きの力量差は明らかであった。チンギス・ハン諸弟を始祖とする東方諸王家もジョチ家・トルイ家を支持し、大勢は決した。
 1251年7月1日、ジョチ家・トルイ家はモンゴル本土において再度のクリルタイを開催し、第4代皇帝として正式にモンケが即位した。
 モンケは父トルイに従軍して金国との戦争を経験し、その後にはバトゥの西征にも加わっている。帝国の東と西の双方の大戦を経験しており、武勇・学識・人望に優れた人物だった。結局、オゴタイ家・チャガタイ家はこのモンケと肩を並べるような優れた皇位継承候補者を擁立することができなかった。

モンケの肖像

 即位したモンケはバトゥの後援を得て、自身の即位に反対したオゴタイ家・チャガタイ家を徹底的に弾圧し、粛清した。前皇后のオグルガイミシュ、2代皇帝オゴタイの孫で皇位継承候補者だったシムレン、チャガタイ家の当主イェス・モンケらが処刑された。
 残されたオゴタイ家の所領も細分化された。かつて世界史の歴史教科書、資料集の地図には「オゴタイ・ハン国」なる国があったように記載されていたが、現在使用されているほとんどの教科書から「オゴタイ・ハン国」の名称は消えている。皇帝モンケ・ハーンによって弾圧、細分化されたオゴタイ家の所領は一つの国と呼べるような体を成してはいなかったことが今や常識となっている。

 そして、皇帝モンケの即位により、モンケを支えるトルイ家の皇子たちが歴史の表舞台に登場することになる。その中でゴビ砂漠以南のモンゴル高原と華北の軍を与えられ、中華世界への征服を任されたのが、後に日本への侵攻を決断するフビライであった。
 それより約1か月前の1251年6月5日(建長3年5月15日)、一人の日本人が鎌倉に生をうける。後の鎌倉幕府8代執権北条時宗である。
 
 西暦1251年。この年を契機に、鎌倉幕府とモンゴル帝国の戦争の歴史は動き始めた。

その時日本では

 今回も日本とモンゴルの出来事を一つの年表にまとめます(太字はモンゴルの出来事)。日本の出来事詳細は過去記事(1~3回)をお読みください。

1241年 皇帝オゴタイ・ハーン崩御
1242年 四条天皇崩御、後嵯峨天皇践祚
    セルビアに侵攻
    バトゥ西征軍が撤退を開始
    執権・北条泰時死去
    順徳上皇崩御
1244年 九条頼経が嫡子・九条頼嗣に将軍職を譲る
1246年 執権・北条経時死去
    寛元の政変(宮騒動)
    グユク・ハン即位
1247年 宝治合戦
1248年 グユク・ハン崩御
1251年 北条時宗誕生
    モンケ・ハーン即位
    フビライが華北・南モンゴル高原の指揮権を与えられる

 
 今回もお読みいただいてありがとうございました。
 次回は日本に話が戻ります。
 これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。

第8回へつづきます。


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