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自傷行為のボーダーラインについて思うこと リスカを笑うな

大人なのに頼りなくてごめん、と言いたい。

誰に言いたいのか分からないけれど、自分は大人なのにできないことがとても多い。大人なのに他の人よりもたくさん泣いてしまう。そこらへんの思春期の中学生より泣いていると思う。

苦しいとき悲しいとき虚しいとき、皆どうしているだろうか。ポテチとチャーハンとピザとアイスクリームを食べながらゲーム実況を見たりしてるだろうか。わたしはよくする。

これは繊細で、よく誤解されていてずっと書きたかった自傷行為についての記事だ。あなたは自傷行為と聞いて何を思い浮かべるだろうか。メンヘラ=リスカの法則、そしてその跡を見せつけるまでをセットにして嫌われる「メンヘラちゃん(笑)」の完成か。

この世には色んな自傷行為に悩んでいて、皆かまってほしくてやってるばかりではないということを書きたい。自傷行為とはそもそも何のことを言うのだろうか。

わたしは、自傷行為を「自分を意図的に傷つける行為」と定義づけるなら、過食(やけ食い)や、アルコールに頼る(やけ酒)などのアディクト(依存)や、オーバードーズ、自分の体を傷つけるリスカを代表とした身体的な痛みや傷を伴う行為(アムカ・レグカ等)、抜毛など、すべて(もちろん他にもたくさんあるが)自傷行為と呼べると思う。

どのくらいの人間がやけ食い、やけ酒、リストカットその他をしているんだろう、と考えると、あなたはリスカをしている人たちを笑えるか。あなたは自分を意図的に傷つける人間を馬鹿にできるか。

精神性と身体性は切り離されて考えられがちだ。しかし実際には体の一部として脳という器官が存在するからこそ精神が生まれる。身体は精神を内包している。マイナスの感情は身体が知覚し、その感情をどう処理するか決めるのはその身体だ。

リストカットをする人の考え方の一つとして、わたし自身のことを話そうと思う。マイナスな気持ちで頭がいっぱいになり、その気持ちをどうにか落ち着けたいがその方法が分からない。涙もたくさん出ているし、頭はパニックになっているし、そんなときにカッターを手にして自分の腕を無心で切ると、その激しい痛覚に頭が集中する。お腹が痛いときに手をつねると少しお腹の痛さが紛れるような気がするのと一緒だ。血が出ている、痛い、絆創膏を貼らなくては、と思い絆創膏をたくさん張り出している頃には心の落ち着きを取り戻している。そしてなんでこんなことしたんだろう、と後悔する。その傷が完全に消えるまで。これはリスカをする人の中には賛同できる人もできない人もいると思うが、あくまでわたしの一例だ。

では過食はどうだろうか。何かいやなことがあった、疲れたとき、美味しいものを衝動的に買い込んで、テレビを見たりYouTubeを見たりしながら食べたことはないだろうか。そのあとその過食を利用して嘔吐し、その過食をなかったことにしようとする(過食嘔吐・カショオ)行為をする人もいるだろう。そこまではなくても、やけ食いをしたことがある人は、マイナスな気持ちを発散させたり、落ち着けたりするためにその行為を取ったのだと思う。食べているときは気持ちいいかもしれないが、食べ終わった後は幸せな気分ではないことは明白で、たくさんの人が経験しているのではないだろうか。

やけ酒はどうだろうか。成年に達している人の多くが一度はやったことがあるのではないだろうか。ストレスをお酒で流し込むように、酔ってすべてを忘れるように、アルコールを摂取する。吐くまで飲んでしまったり、飲みすぎて倒れたり歩けなくなったり、二日酔いになるほど飲んだりするそれらの行為は、自分を傷つけていないと言えるか。それらを後悔して「しばらくお酒は控えよう」とか「もうお酒はやめる」とか宣言していないだろうか。そして何度も同じことを繰り返しているのに、やめられなくて悩んでいる人はいないだろうか。

多くの人が自傷行為を「イタい行為」だと認識しているようだが、自分を意図的に傷つける自傷行為を、「やりたくてやっている」と思っているからそう思うのではないかと思う。確かにその行為を選択しているのは自分自身だが、アディクトをやめたいとたくさんの人が思っている。やけ酒を、やけ食いを、リスカを、やめたいけどやめられない(つまり精神的な依存=アディクト)からするのである。

どうしたら自傷行為やアディクトから離れることができるのか、ということについては医師の治療の元で相談してほしい。ここではどうしたらやめられるようになるのかではなく、自傷行為のボーダーラインは、その人自身がその行為をやめたいのに依存していると認識しているかどうかだとわたしは思うということを言いたかったに尽きる。そして、自傷行為やアディクトから離れられずに悩んでいる人たちが笑われたり馬鹿にされてほしくないということも。

人間は自分をコントロールできなくてはならない、と思われている。確かに子供ではないのだし、ましてや子供だったとしても、人間は知能を持って生まれ、理性で社会性を構築して群生する動物だから、自分を理性でコントロールできることは重要なことだと思う。でも自分でコントロールできないことを他人が笑ってはいけないと思うのだ。その笑いこそコントロールできなければならない感情であり理性だ。できるだけこの先自傷行為やアディクトに悩む人たちが減ったらいいと思う。そのためには苦しい自分との対峙があり、依存の克服はその先にある。

大事なのはストレスやマイナスの感情の発散の最適解を、常に見つけようと精進することだと思う。一つよりも二つ、二つより三つと常に流動的に自分をコントロールする方法を見つけていけることが理想なのではないかと思う。自分も悩んでいることを他人にアドバイスすることは難しいが、あまり自傷行為やアディクトした自分を責めないで生きていけたらと思う。そしてそのアディクトを、ストレスやマイナスの感情を消したという実績に数えないということが重要だと思っている。アディクトで解消されたと思い込んでいるものは、別の形のストレスやマイナスの感情として身体に蓄積されたままなのではないだろうか。(例えば後悔など。) そう考えることで、アディクトから身を離す、また依存状態に戻りたいという気持から少しでも思いとどまってくれればと思うし、自分もそうでありたいと思う。

最近自分は精神的に苦しいとき、無茶な飲酒でごまかそうとしてしまう。この記事は自分のために書いたものである。同じ悩みを持っている人にこの記事を読んでもらえたら嬉しい。

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