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ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)

ハンガリー映画といえばネメシュ・ラースロー『サンセット』が公開され、エニェディ・イルディコ『私の20世紀』やタル・ベーラ『サタンタンゴ』がリバイバル上映される今年は正にハンガリー映画イヤーと言えるかもしれない。

今回は第二次大戦中、枢軸国側につくことになってしまったハンガリーの映画界が辿る皮肉な繁栄とその末路をご紹介。

・ユダヤ人法による迫害

映画史の外からの圧力によって、30年代中期の精力的な進歩も減速していく。1939年1月1日より施行されたいわゆる"ユダヤ人法"によって、ハンガリー映画界のユダヤ人も職を追われてしまった。これによって、30年代を代表する監督だったSzékely István、Gaál Béla、Vajda Lászlóの三名は映画製作が不可能となった。大衆に愛された俳優・女優であるKabos Gyula、Ráday Imre、Perczel Zita、Ágay Irénなども映画への出演を禁じられた。唯一、偽名を使って脚本を書いた脚本家たちだけは40年代を生き延びることが出来た。Székely Istvánはスティーヴ・セクリー、Vajda Lászlóはラディスラオ・バホダと名を変え、他の人々と同様に海外へ渡ったが、Gaál Bélaはナチスの犠牲となってしまった。

・皮肉な発展

1939年から政府の監視が厳しくなった。原稿段階ですら国立映画委員会(National Film Committee)に提出せねばならず、それによって援助額が決められてたのだ。同時に、国産映画の強力なライバルとなっていたアメリカ映画の輸入が禁止された。しかし、1919年に第一次大戦の結果失ってしまった領土が戻ってきたので、ハンガリー国産映画にとっては市場が広がり、結果として映画産業はさらなる発展を遂げてしまった。Hunniaは1941年に閉鎖されたStar撮影所を買い取り、近代化して再オープンした。また、製作本数も増加していき、
1939年 → 25本
1940年 → 38本
1941年 → 40本
1942年 → 48本
1943年 → 53本
まで達した。ハンガリー映画はバルカン半島やイタリアにも販売され、成功した映画はイタリア人によってリメイクまでされた。例えば、Vajda Lászlóが追放前に撮った以下の作品はヴィットリオ・デ・シーカによってリメイクされている。
・『Magdát kicsapják (Magda Expelled)』(1937)
 →『Maddalena zero in condotta (Maddalena, Zero for Conduct)』(1940)
・『Péntek Rézi (Friday Rose)』(1938)
 →『Teresa Venerdi (Doctor, Beware)』(1941)

・メロドラマ時代の到来

映画業界は世界の変化を独自の方法で取り入れていった。ハンガリアン・コメディの一人勝ちだった黄金時代は呆気なく終わりを迎え、愉快な物語と軽妙な会話は不吉な雰囲気に取って代わられてしまった。そんな時代に頭角を現したのがメロドラマだった。製作が始まるとたちまち人気に火が付き、以下のような作品が製作された。
・カルマール・ラースロー『Halálos tavasz (Deadly Spring)』(1939)
・カルマール・ラースロー『Egy szív megáll (A Heart Stops Beating)』(1941)
・Bánky Viktor『Kölcsönadott élet (Lent Life)』(1943)
・Vaszary János『Egy nap a világ (One Day is the World)』(1943)
アメリカやフランスに加えてハンガリーでも"ハンガリアン・ノワール"が誕生したのだ。"白電話"コメディが憧れや希望を表していたのと同様に、メロドラマやノワールは人々の憂鬱を表していたのだろう。

メロドラマにはこれまでにない女優のタイプ、ファム・ファタールが登場した。Karády Katalinなどは40年代を代表するファム・ファタール女優の一人である。

メロドラマが人気になるにつれて、コメディの様式も変化していった。馬鹿げた状況やバーレスク的要素を多分に含んだ"笑劇"が多く作られるようになったのだ。代表的な作品は、
・Martonffy Emil『Egy bolond százat csinál (One Fool Makes a Hundred More)』(1942)
・Hamza D. Ákos『Egy szoknya egy nadrág (One Skirt, One Pants)』(1943)
・Balogh István『Szerencsés flótás (Lucky Fellow)』(1943)
・Sipos László『Tökéletes család (The Perfect Family)』(1943)
などである。

ちなみに、アート系映画を製作しようという試みはあったものの、ロマンス系メロドラマを自然主義的なものに変えるという"最初の一歩"程度で終わってしまった。これらの代表作として、
・Bán Frigyes『5-ös számú őrház (The Guarding Post Number 5)』(1942)
・Jenei Imre『És a vakok látnak (And the Blind Can See Again)』(1943)
がある。

・戦時中の監督たち

メロドラマの巨匠と呼ばれたカルマール・ラースロー(Kalmár László)は、同ジャンルにおける最も有名で人気な典型例ともいえる作品を数多く監督していた。
『Halálos tavasz (Deadly Spring)』(1939)
『Dankó Pista』(1940)
『Tóparti látomás (Vision by the Lakeside)』(1940)
『Egy szív megáll (A Heart Stops Beating)』(1941)
といった作品で有名である。彼はGaál Bélaのように、アメリカ商業映画を参考にしていた職人監督であり、それが大衆の心を掴んだのだろう。

Tóth Endre(後のアンドレ・ド・トス)は30年代中盤に監督補佐としてキャリアをスタートさせ、後にスリラーやスパイ映画、伝記映画など新たなジャンルの開拓に貢献した。

Radványi Géza(後のゲツァ・フォン・ラドヴァニ)は故国で監督及び脚本家として働き始めた際、パリやベルリンの撮影所のタッチを持ち帰っていた。彼の作ったメロドラマはその心理描写の巧みさと完璧に作り込まれた空気感のため、同時代のメロドラマからも傑出している。代表作は、
『Zárt tárgyalás (Closed Court)』(1940)
『Európa nem válaszol (Europe Does Not Answer)』(1941)
などである。

Hamza D. Ákosもまたパリから故国へ戻ってきた監督である。彼は主に社会問題やモラルの問題を中心的に扱い、フランスの詩的リアリズムを追随していた。下層階級の人々の道徳的なぶつかり合いをドラマチックな手法で見せることを好んでいた。代表作は、
『Bűnös vagyok (I Am Guilty)』(1941)
『Külvárosi őrszoba (Guarding Post in the Outskirts)』(1942)
などである。

・戦争プロパガンダ

40年代になると、"夢の工場"だった映画業界も"毒の工場"に侵食され始める。ナチス寄り政権の意向を反映した映画が作られるようになったのだ。代表的な作品としてBánky Viktorの二作『Dr. Kovács István (Doctor István Kovács)』(1941)、『Őrségváltás (Changing of the Guards)』(1942)がある。
また、以下のような戦争を正当化・礼賛するような映画も多く作られた。
・Farkas Zoltán『Negyedíziglen (To the Fourth Generation)』(1942)
・Lázár István Jr『Viharbrigád (Storm Brigade)』(1943)
・László István『Magyar sasok (Hungarian Eagles』(1943)
・Pacséry Ágoston『Egy gép nem tért vissza (A Machine Has Not Returned)』(1943)

・"社会ドラマ"の誕生

この頃の映画は"人民の作家"と呼ばれた農民のリアルな生活を克明に描写した小説を映画化する傾向にもあった。人数は少なかったものの、ハンガリーのより現実的な社会問題を映画化する方向へ舵を切った監督もいたため、"社会ドラマ"というジャンルが出来上がった。

Cserépy Arzénはドイツで活動していたが、1939年にハンガリーに戻った。彼の監督作『Földindulás (Landslide)』は、これ以上小作農地を細分化しないため産児制限を強いられた小作農をドラマチックに描いた作品である。

短編映画からキャリアを始めたCserépy Lászlóは『Az első (The First One)』(1944)で、子供を産めない女性が子供を産むために命を危険に晒すような作戦(?)を強いられるという全く逆のことを言っている。また、『Harmincadik (The Thirtieth)』(1942)では、小さな炭鉱の村に学校を開こうとする若い教師の前に立ちはだかる数々の障壁を打ち破るという話を描いている。

Nádasdy Kálmánの『Gyávaság (Cowardliness)』(1942)は、メロドラマ調の話運びを使って、無関心による結婚生活の崩壊を描いた作品である。

Apáthi Imreは『Idegen utakon (Strange Roads)』(1944)で、違法な中絶によって亡くなった女性のために職務に復帰する若い女性医師を描いた。

また、若きSzőts Istvánの長編デビュー作『Emberek a havason (People of the Mountains)』(1941)は、Nyirő Józsefの短編を原作としており、トランシルヴァニアの雪深い高山地域に暮らす人々の悲劇を、詩的な映像で語っている。彼は、自然愛好家で、ルソー的な反資本主義を信奉し、自然の中での"のどかな"暮らしと文明社会の腐敗を対比させて強調するのを好んでいた。この映画でSzőtsは、社会の底辺に生きる人々の無力さを描き、終戦以降に登場する"農民の生活"系映画の礎を築いた。また、この映画はイタリアの新聞によって"映画的な芸術をどうやって再構築するか"の例として引用され、1942年のヴェネツィア映画祭でビエンナーレを受賞した。

・そして、終戦

1944年には戦争によって製作本数が落ち込み、下半期は製作が中断された。この時代最後の"成功"とされているのは、Hamza D. Ákosの『Ez történt Budapesten (This Happened in Budapest)』(1944)とされている。この映画はヒロインが戦時の街で食料品不足をどうにかやりくりしていこうとバトルするコメディ作品である。彼女の女性的な発想能力のもと、銀食器や本物のコーヒーやローストしたガチョウなど、戦時下とは思えない完璧な食卓を作り出すのだ。

そして、終戦を迎えたブダペスト野町に飾られたこの映画の破れたポスターが、あたかも街の現状を告発してるかのようでもあった。"これがブダペストで起こったことだ(This is what happened in Budapest)"と。


ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間 に続く

※ハンガリー映画史これまで

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)
ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)
ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)
ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し(1925~1932)
ハンガリー映画史⑤ 戦間後期 コメディ黄金時代(1932~1939)
ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)
ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間(1945~1948)
ハンガリー映画史⑧ ステレオタイプと復古戦前の時代(1948~1953)
ハンガリー映画史⑨ 社会批判と詩的リアリズムの時代(1953~1956)
ハンガリー映画史⑩ 人民共和国時代初期 静かなる移行期(1956~1963)
ハンガリー映画史⑪-A ハンガリー映画黄金時代 社会批判、リアリズム、歴史の分析(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-B ハンガリー映画黄金時代 ハンガリアン・ニューウェーブ!!(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-C ハンガリー映画黄金時代 日常の映画と商業映画(1963~1970)
ハンガリー映画史⑫-A 新たな道を探して 耽美主義と寓話(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-B 新たな道を探して ドキュメンタリーとフィクション(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-C 新たな道を探して ドキュメンタリー、風刺、実験映画(1970~1978)
ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-C 二度目の黄金時代へ 格差の拡大と映画の発展(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-D 二度目の黄金時代へ 新たな語り口とその様式化(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-E 二度目の黄金時代へ 繊細さを持った映画たち(1979~1989)
ハンガリー映画史⑭ そして現代へ (1990~)

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