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マウゴジャタ・シュモフスカ 作品評集

東欧映画スペースにて度々名前の登場する監督の一人にマウゴジャタ・シュモフスカがいる。芸能一家出身で学生時代からその才覚を知られており、今でもポーランドを中心に世界を股にかけて活躍している監督である。とはいえ、そこまで長い記事にならなさそうなので、短評を寄せ集めて一つの記事にすることにした。

『Wniebowstąpienie』 2000

傑作。マウゴジャタ・シュモフスカ初期短編。ミハイル・ブルガーコフの散文小説に着想を得た一作。原作は人口過密によって住宅問題が悪化していたモスクワにやって来たブルガーコフが、アパートを見つけるのに苦労した経験を基にしているらしい。本作品の冒頭でも、普通のアパートの一室に場末の食堂くらい人が集まって踊り明かしており、その小汚さと厭世的な風景はもはやポストアポカリプス的ですらある。そして、狂ったパーティに"金を降らせる男"が来訪する。舞台は1920年代から現代に移されていて、"金を降らせる男"とそれに対する反応や登場人物たちの現代的な服装は共産主義政権から脱した資本主義の流入を感じさせる。金を手にした住民たちはそれぞれの部屋に散り、金を握りしめながら、今では否定され色褪せてしまった過去を思い返し、絶望的な表情でカメラに向き直る。題名は"上昇"という意味らしいが全くの皮肉だ。初期の短編作品はセリフがほぼないイメージだけの作品が多いのだが、これは指導教官だったヴォイチェフ・イエジー・ハスの助言に従った結果らしい。詳細は不明。

『Happy Man』 2000

マウゴジャタ・シュモフスカ初長編作品。2000年のテサロニキ映画祭に出品されて特別芸術貢献賞を受賞した作品だが、それよりも前からシュモフスカの名前は知られていたらしい。というのも、彼女の母親は作家のドロタ、父親はジャーナリストのマチェイ、兄はドキュメンタリー作家のヴォイチェフという芸能一家出身で、本人もウッチ映画大学在学中の短編ドキュメンタリー作品で既に注目を集めていたのだ。主人公ヤンは、クラクフの小さいアパートで母親マリアと二人で暮らしている30代無職男性。仕事をしないヤンに変わって働きに出たマリアは、健康診断にて肺癌で余命幾許もないと知る。母親の病状を別ルートで知ったヤンは、母親が知らないと思って医師を口止めし、母親を幸せにするために、街で出会った女性マルタと結婚する決意を固め、母親の前では婚約者のフリをしてくれと彼女を説得する。という奇妙な騙し合いゲームみたいな話、らしい。三人が互いに"自分はいいから他の二人には幸せになって欲しい"という自己犠牲の三竦みのような関係性を繊細に描いている。

『Stranger』 2004

マウゴジャタ・シュモフスカ長編二作目。未入手。

『33 Scenes from Life』 2008

マウゴジャタ・シュモフスカ長編三作目。新進気鋭の芸術家ユリアと売れっ子作曲家ピョートル夫妻はクラクフに住んでいる。ユリアの父親ユレクは有名な映画監督、母親バルバラは有名な犯罪小説家という、まさにシュモフスカ家みたいな家族構成だ。しかし、母親が胃癌に倒れたことをきっかけに、平和な家族は為す術もなく崩壊していく。父親は小さな事にイライラして酒に溺れ、姉は非協力的で、ピョートルはずっとケルンで仕事をしていて、ユリアはこの難局に一人で対処せねばならず、共同制作者のアドリアンに安らぎを見出したが、それは結婚生活を破綻させる道に他ならない。実際に33のシーンがあったかどうかは数えてないが、クシシュトフ・ザヌーシ『Illumination』くらいの速さで容赦なく人生をぶった切っていく編集には好感が持てる。音楽だけ鳴ってる暗転シーンが30秒も続くなど、謎演出も健在。ラストで、両親と夫を失ったユリアは、アドリアンに対して"私はずっと子供でいたかった"と呟くのが印象的。ここが新たなる始まりの点なのだ、しかしこの先に知ってる人は誰もいない、という恐怖が次第に肥大していく。ちなみに、シュモフスカは学生時代から今に至るまで全ての作品で同期(?)のミハイ・エングラートが撮影を担当し、脚本や編集、共同監督まで携わっている。シュモフスカとエングラートは2001年に結婚したのだが、シュモフスカの両親が亡くなったタイミングで離婚したらしい。ユリアがシュモフスカ本人であるなら、ケルンにいて帰ってこなかったピョートルはエングラートということなんだろうか?

『ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー (Elles)』 2011

マウゴジャタ・シュモフスカ長編四作目。ベテラン監督から新人監督まで神出鬼没なジュリエット・ビノシュを主演に迎え、当時まだ無名だったヨアンナ・クーリグと子役イメージから脱却しつつあったアナイス・ドゥムースティエを起用してフランスで撮ったのが本作品である。雑誌「ELLE」のベテラン記者アンはパリ市街地に夫と二人の息子とともに暮らしていた。今彼女が取り組んでいるのは、女子大生の援助交際についての記事だ。アンは二人の女子大生への取材を進める中で、彼女たちが援助交際を屈辱的なこととは思わず、むしろ最短で同年代の人々の求める物質的欲求を満たしたことを誇らしくすら思ってることに気付く。確かに文芸エロ映画っぽくソフトポルノシーンはあるし、誇らしくすら思ってるとは言え家族や恋人には打ち明けられないという側面を描いたり、危険な客を登場させたりして、多少批評的に見ている部分もあるが、映画の殆どは取材したアンについての物語である。二人の子供たちにはナメられまくり、編集者には原稿を短くしろと迫られ、夫の上司夫婦を家に招いて媚びへつらう必要があり、という生活は現代的な価値観から"幸福"と呼べるのか?というかそもそも現代的な価値観って何なんだ?という疑問を様々並べていく。その点で、同時代のエマニュエル・ベルコ『ザ・レイプ』とは違っている(うろ覚えだが)。ただ…まぁ在り来りっちゃ在り来り。実は同じ時期にパヴェウ・パヴリコフスキもフランスで映画撮ってるんだが、シュモフスカとパヴリコフスキは友人らしく、『イーダ』の主演の人をカフェで発見したのもシュモフスカらしい。

『In the Name of…』2013

マウゴジャタ・シュモフスカ長編五作目。今回の主人公は田舎司祭である。ずっと信心深かったわけではなく、21歳のときに突然亡き父を感じたことで目覚めた人物であり、グレた子供たちへの理解もある善良な司祭だ。そんな彼は問題を抱えた少年たちのケアを行う宿泊施設を教区に作って運営している。少年院あがりの少年たちは地元の少年たちとは折り合いが悪いようだが、施設内の少年同士ではそこまで仲が悪いというわけでもなさそうだ。映画の半分くらいまでは全く何も起こらずに、淡々と彼らの日常風景を描いているわけだが、徐々に方向性が見えてくる後半30分でようやく物語が動き始める。主人公は幼少期に癒えない心の傷を負ったことで少年に対する思いが断ち切れず、自分はペドフィリアではないとしながらも、日常的に少年たちに触れ合っている。ウルリヒ・ザイドル『スパルタ』のような凶悪さはなく、単純に"理解者"、基"ハグしてくれる人"を求めての行動のようで、映画全体も彼を糾弾することはない。ポーランドはカトリックが強い国で、性的マイノリティへの弾圧も激しいため、二重の意味で主人公を設定したんだろう。だからこそ、"自分であること"が当然である、という優しさによって包まれている。

『君はひとりじゃない (Body)』 2015

2015年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。マウゴジャタ・シュモフスカ長編六作目。順番は逆だが『もう雪は降らない』の兄弟みたいな作品。母が亡くなって6年も経つが、父ヤヌシュと娘オルガの間は冷え切ったまま、オルガは摂食障碍となり、ヤヌシュは検察官の仕事を理由に娘と向き合わない。二人はアンナという変なセラピストに出会う。実際に幽霊が見えるらしく(画面上にも登場する)、母親の幽霊が見える…っぽい対応をしてヤヌシュを惑わす。実際に暖房が壊れたり自分がいないときに音楽が鳴ったりとヤヌシュの周りではそれっぽいことが頻発する。冒頭で自殺した首吊り死体がムクリを起き上がって歩き出すので、もはやこれが普通なのかもしれない。もうよく分からないっす。どうやって解決するんだろうと思ったら、中々ぶっ飛んだ、それでいて納得感のあるエンディングで感服。

『顔 (Mug)』 2018

マウゴジャタ・シュモフスカ長編七作目。

『The Other Lamb』 2019

マウゴジャタ・シュモフスカ長編八作目。コチラの記事を参照のこと。

『もう雪は降らない』 2020

マウゴジャタ・シュモフスカ長編九作目。コチラの記事を参照のこと。

『インフィニット・ストーム』 2022

マウゴジャタ・シュモフスカ長編十作目。ニューハンプシャー州のワシントン山、捜索救助ボランティアとして麓の山小屋で暮らすパム・ベイルズは、ある目的を持って冬の山へ入っていく。天気も崩れそうだが強行したのは、山に登ることそのものではなく、その日に山に登ることを重要視していたからだ。当初の予想通り途中から吹雪に変わり、山頂付近で瀕死の若い男を発見する。そして、何度も諦めようとする男を下山させようとする。斜面を滑落したり冷たい川に入ったりと大変そうだが、ようやく麓に付いた!というエンディングにならないのが流石といったところか。美しさと苦難が表裏一体となり凄まじい勢いで迫ってくるという点で、山と人生は似ているのかもしれない、と思うなどした。

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