万引き家族

「私なら、絶対に人を殺さない」のだろうか。

「私なら、絶対に人を殺さない」

喫茶店でニュースを聞きながらそう話す彼女の目には、大きな正義への期待が詰まっていた。
もういつだったのかは正確に思い出せない。多分その時殺人事件があって、テレビでは連日犯人の生い立ちや性格、最近の生活などがあれやこれやと大きな声で話されていた。そんな時に、彼女はニュースを聞いて思い出したように事件の犯人の話をし始めたのだ。

正直、耳に聞こえのいい言葉ではなかった。
でも私は彼女とそこまで仲が良かったわけではないし、犯人に肩入れをするほどニュースをしっかり追っていたわけではなかった。犯人を擁護する言葉を頭の中で並べ彼女の反応を予想してみたけれど、なにを言っても特に良いことはないような気がして、「へぇ、そうなんだ」と間の抜けた返事をする。

「あんな人が近くに住んでたら怖くない?」

彼女の眉が不愉快そうにゆがむ。
彼女の言葉はまっすぐで、時にとても容赦のないものだ。彼女に悪意がないことは承知しているつもりだが、私は時に返す言葉に困ってしまう。確かに事件の犯人が近くに住んでいたら私だってすごく怖いけれど、それに同意することは、犯人が私たちとは全く異なる、危険人物であるということに同意することでもありうるのだ。
もしかすると多くの場合この手の質問に答えなんて求められていないのかもしれないが。

「絶対、本当に人を殺さないの、かな?私たちは」

それは彼女に聞きたかったことというより、私が自分自身に問うていた言葉だった。

(、、やってしまった、、、。)
私のまつ毛が揺れる心を隠すように下がる。

「かなこちゃんは殺すの?人、殺したいって思うの?」

私の隙だらけの言葉に、ここぞとばかりに容赦ない問いが降りかかる。

「え、いや、殺さないけど、ね。
え、あ、殺したいとか思わないよ!」

私は可能な限りの好意的な笑顔を口に浮かべる努力をしながら、そう言った。

「でしょ、じゃあかなこちゃんだって殺さないんじゃん!」

私は激しめに叩かれた肩にあまり愉快ではない親密さを感じながら「本当に私は人を殺さないのか。」ということを考えていた。


◆◆◆


子供の頃から、私はなぜか同じことを思っている。
昔から「他者の行為を自分は絶対にしないと言い切れるのか」ということが気になる性格だった。

なぜそんなことが気になるのか、正直自分でもよく分からない。
理由はともかく、その問いは時に私を普段と異なる行動へと促す。

高校生の時父が浮気をしたと聞いてマッチングアプリに登録し、不倫を望む男性と連絡を取った。そして自分はその人と恋に落ちることができるか、真剣に模索した。(実際には、知らない男の人に会うのが怖すぎて、会うことすらもできなかったけれど。)
弟が万引きをして怒られた時は、同じようにお店で万引きをして、後から事情を説明して商品を返しに行った。(勿論ものすごく怒られて、ただの万引き少女だと思われた。ごめんなさい。)

もちろん他者と同じことをすれば、その人の気持ちが分かると思ったわけではない。ましてやその人の感情を理解することでその人の行為の正しさを証明したい、みたいなそんな綺麗な動機はない。
私はただ、一度他者と同じ行為をやってみなくては気が済まなかっただけだ。

「私は絶対にやらないと言えるのか、それを持って他者を批判できるのか」

それだけが私の関心ごとだったんだろうと思う。
そんな問いをいつも心に持っていた私は、いつしかこのように考えるようになっていた。

誰かの人生は、私が歩んだかもしれない人生。

結局私は不倫はできなかったし、したくもないと思う。
でも、不倫をしているおじさんたちの

”自分の人生に対するやるせなさ”や、
”誰かに自分を受け入れてほしい気持ち”

は、私も似たようなものを感じたことがある気がした。
それは私が今置かれた環境では選択しないことだけれど、もし私がおじさん達と同じ環境に置かれた時、「私は不倫をしない」と言い切るには納得できる理由が不足していた。


◆◆◆


是枝監督の映画『万引き家族』で、子供を誘拐し育てた母親に対し警察が問いかけるシーンがある。その時の母親役の安藤サクラの目が、私はいつまでたっても忘れられない。
彼女の目は、まっすぐ社会を眼差そうとしていた。

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「捨てる人がいるから、拾うんじゃないんですか。」

あぁ、そうだ。

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