記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

2024年映画感想No.9 パスト ライブス/再会(原題『Past Lives』 ※ネタバレあり

パーソナルな物語を巡る眼差しの導入

TOHOシネマズ日比谷にて鑑賞。
人にはわからない登場人物たちのパーソナルな感情、関係性を巡る物語だということを「傍目からみて関係性が理解できない」という他者からの目線で示すファーストシーンからグッと引き込まれる。パッと見てわかるほど単純でも、一言で説明できるほど簡単でもない。唯一選ばれた可能性である現在として男女が並んで語らう姿があり、そこから過去を遡るからこそ二人が歩んできた長い時間と、後戻りできない人生の限界が常に横たわっている。
まるで観ているこちら側と目が合うように主人公ノラのカメラ目線でカットが終わるのも物語に誘われるようでドキッとした。

同じ場所にいる少年期の二人

時系列が24年前に戻り描かれる少年期のパートでは二人ののちに「初恋」と表現される関係が全然ドラマチックでもロマンチックでもないのが良かった。「学校の中ならこの人」みたいな選ばれ方で異性としての意識が始まるところとか、親のお膳立てで「二人で遊ぶ」という時間を作ってもらう感じとかとてもリアルだと思う。まだ恋愛未満の互いへの好意が「一緒に遊ぶと楽しい」くらいの素朴な関係に表れているのがめちゃめちゃ年相応だった。
それくらいなんてことない出来事を描きながら、ちゃんと絵作りや見せ方で心に残る瞬間を描き出す演出力の高さが心に残る。美しい撮影や音楽が本作終盤の効果的な反復演出をより際立てていると思う。
勉強で競い合い、一緒の道を歩く二人は価値観的にも物理的にも同じ目線の世界を生きているのだけど、それがノラの移住によってズレていくことを示唆するかのようなロケーションの使い方など、一つ一つのカメラワークがとても映画的で素晴らしかった。二人が一緒にいられた最後の思い出としての公園で遊ぶ場面は、印象的な物理的距離の描き方がちゃんと後半の再会場面で効いてくる。青年期以降のそれぞれの立っている場所として「街と人」を捉える撮影はソール・ライターを思わせる。

移っていく者の人生、残される者の人生

ノラがアメリカに移住することで二人の人生は決定的に分岐してしまうのだけど、それが単に物理的距離の隔たりだけでなくアメリカと韓国で育つことによる人生そのものの乖離として二人の関係に表れている。ヘソンには遠い「外の世界」で理想を追っているノラに対する憧れがあるように思うし、一方のノラはかつての自分から承認されるような関係に何者でもない季節を支えられているようにも映る。元々同じ場所にいた二人だからこそ、「韓国の韓国人」と「NYの移民」という「見ている世界の違い」が関係性に響いていること自体がままならなさとしてずっと横たわっている関係に感じられるし、それは幼少期の選びようがない要因によって始まっているのだと思うと常に人生の不可逆性が二人の間に立ちはだかっている。
少年期から12年が経ってニューヨークで自立した人生を歩むノラと徐々に韓国の社会に取り込まれていくヘソンでは現在地や見つめているこの先の人生に決定的な違いが生まれつつあるのだけど、英語が第一言語になったノラがなんとかハングルのタイピングを取り戻していくように、なかなか繋がらないSkype通話がそれでもギリギリ二人を繋ぎ続けるように、もしかしたらこれが二人が同じ人生を選べる最後のチャンスのようでもある。
ビデオ通話で再び繋がるようになる二人の、時間や場所を越えたカットバックの演出はマジカルでロマンチックな一方で、常に隔てられた関係であることを際立ててもいる。12年の時を経て今や文字通り住む世界が違う二人がそのギャップを埋め合わせるように通話を重ねていくのだけど、それぞれが見つけかけている人生を犠牲にするのに二人の関係は不確かすぎたのだと思う。
「ここではないどこか=理想の人生」と「かつていた場所=何もなかった自分の居場所」という二人が互いに見ているものの違いがありながら、この時期の二人は何者でもない者同士、互いに居心地の良い関係を必要としているようにも思える。その時間を終わらせるのはそのモラトリアムを拒絶して理想を追い求めるノラの選択であり、一方のヘソンもノラを追いかけるように彼自身の世界を広げる道に進んでいく。一度きりの人生だからこそより良い自分を探すノラの選択と、大切な人が進んでいくことを受け入れることでノラのように成長する人生を見つけようとするヘソンの選択は、それがどういう結果を招いたとしてもその選択すること自体の正しさを誰も否定できないと思う。
物理的な距離を乗り越えられずに遠ざかっていく二人の関係性に対して、「イニョン(縁)」の説明に重ねてそれぞれの別のパートナーとの出会いが袖が触れ合う距離感で訪れるのも「選んだ可能性」の必然性を高めているように感じた。現実的な選択の先にそれぞれの行き着く人生がある。

再会によって確かになること

さらに12年が経つと、完全に自ら選択した人生を歩んでいるノラと「韓国的」なる価値観の中で身動きが取れなくなっているヘソンには残酷なほどのコントラストがある。特に韓国に留まることしかできなかった自分の人生にままならなさを抱えているヘソンの方が「ここではないどこか」に違う人生があったかもしれない可能性を切実に見つめていて、だからこそノラに会いにくるのかもしれない。
自分とは違う場所、違う人生にいるノラに会うことは「一緒にいたあの頃」の決定的な終わりでもある。だからこそ、彼らが再会する場面に幼少期の「最後の思い出」がフラッシュバックする演出があるように感じる。彼らにとって人生が重なる最後の時間であり、その再会には「一緒になる」ことへの予感は無い。ノラと再会する直前に待っているヘソンが見せる表情は、また会えることの喜びや緊張と同時に会うことで二人の関係に答えが出てしまうことへの寂しさも含まれているように見えて、思い返すととても切ない。

ニューヨークという場所が浮き彫りにするもの

ニューヨークという場所の持つ意味が二人の人生の違いを浮き彫りにするような観光場面も味わい深い。
ヘソンは他者として異国の地を巡り、一人でホテルに帰るその場所には彼の人生を持ち込む余地はない。ノラの世界やノラの人生に触れること一つ一つが追いつけなかった理想を彼に突きつけるようでもある。
二人が訪れるメリーゴーランドの前ですれ違うたくさんのカップルたちは、それぞれが二人にあった違う可能性のようであり、だからこそ街の片隅に存在する小さな物語一つ一つを見つめているようにも感じた。

それぞれの人種的アイデンティティから来る良心の描き方

ノラとヘソンの関係をアーサーがどう受け入れていくかという描写もとても良かった。移民であるノラのルーツの物語にアーサーが悩みながらも寄り添う姿を描くところにアメリカの良心を見つめる眼差しを感じた。
そういうアメリカ的なる存在のアーサーをホームにしたノラが、韓国的なる人生を生きるしかなったヘソンに寄り添う。過去と今を比べるのではなく、過去の先にあるものとしての現在からそれぞれの物語を見つめる眼差しが優しい。残された人、移らなければいけなかった人、受け入れる人、というそれぞれの人種的アイデンティティと重なるように大切な人が抱える自分の知らない物語を尊重する良心を描いているところがとても素晴らしいと思う。

特別な時間の終わりという映画的な余韻

ノラが「韓国的」なるものから遠ざかっていくことで離れ離れになった二人の人生の物語の最後に、韓国語が彼らに残された最後の親密な領域として演出されているところが切なくも感動的だった。
二人の別れ際に幼少期の「さようなら」と別れた場面がフラッシュバックする。来世のイニョンを願うこの瞬間が意味するものは今世のイニョンの終わりなのだと思う。同じ場所から別々の時間に運ばれてここまできた物語を想うように、手を繋ぎ、肩を寄せ合った幼少期と同じ構図で帰路のタクシーに一人乗るヘソンを映す。ノラはアーサーというホームへ、ヘソンは韓国で生きる人生へと帰っていく。二人が共にいた時間との対比が別れていったそれぞれの人生を、もう戻らない時間を際立てる。
映画は時間芸術だからこそ、観客は「観る前には戻れない」という不可逆な余韻を主人公たちの特別な時間の終わりに重ねてしまう。登場人物たちと一緒に結末のわからない時間を過ごすことも、全てが終わった後にもう戻らない時間を思うことも、どちらも極めて映画的な体験だと思う。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?