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同潤会アパートと渋谷:1 /白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

 先週のNHK「小さな旅」は、兵庫県香美町余部(あまるべ)の話だった。

 香美町は、先日まで8回にわたり「蟹と応挙のまち」としてご紹介してきた、あの町。
 日本海の蟹、大乗寺の円山応挙一門による障壁画に加えて、じつはもうひとつ、忘れてはいけない町の目玉があった。それこそが、香住駅の2駅隣・余部地区にある「余部橋梁」である。
 高速道路のようなコンクリート造の橋梁は、もとは明治45年(1912)建造の真っ赤な鉄橋であった。
 鉄橋の写真を初めて見たとき、たいへん衝撃を受けた。いつか行ってみたい憧れの近代土木遺産のひとつになったが、うかうかしているうちに架け替えとなり、間に合わず。

 ※以下のサムネイルは現在の姿。リンク先が往年の鉄橋。

通りがかりの餘部駅ホーム(駅名としては旧漢字)。右手奥に海、手前には赤い鉄橋の切れ端(ベンチに転用?)

 土木遺産としてのせめてもの延命措置、また地元の方々にとってのメモリアルとして、赤い橋脚が一部だけ、このように保存されている。
 今回の香美行の際、この姿を観に餘部駅で下車しようか迷い、断念した。どんな形であれ、残してくださったのはありがたいと思いつつ、残骸の姿を見るのはつらいなとも感じたからだ。
 橋の架け替えじたいは、仕方のないことである。
 日本海の海風をもろに受けて運行は不安定、ボルトやナットなどの落下、車窓からのごみの投げ捨てが問題となり、さらに昭和61年(1986)12月には列車の落下する大事故が起き、犠牲者が出てしまっていた。こうするしか、なかったのだ。

 ——表参道の、同潤会青山アパートメント。
 2006年に再開発され、現在は表参道ヒルズが建つ一角に、見覚えのある佇まいが残っている。
 これも余部鉄橋と同じ「残骸の姿」のようにみえ、それはそれで酷なものだが、似て非なるもの。「復元」なのである。

 後から手をかけて再現するくらいなら、なぜ一部だけでも残さず、取り壊してしまったのだろう……疑問は消えない。
 余部橋梁の事例とは違い、これに関しては、ほんとうに「こうするしか、なかった」のだろうか?

 同潤会青山アパートの解体は、多くの人に惜しまれた。
 その熱がいまだ冷めやらないことを示すかのように、 「同潤会アパートと渋谷」展の会場は、かつての原宿をめぐる思い出をあれやこれや語りだす人々でにぎわいをみせていた。(つづく

同潤会青山アパートの階段部材(会場は一部撮影可)



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