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太子忌の思い出 播磨の斑鳩寺 :2

承前

 出店の喧騒は、仁王門をくぐった先の境内にも続いていた。
 本堂をお参りしてから、出店のテント越しに見えていた三重塔へ。建立は室町後期・永禄年間という。播磨平野で他に高層の建物もないため、遠くからでもよく目立つ。

テント越しの三重塔

 塔というのはふしぎなもので、てっぺんがちらりとでも見えようものなら、すぐさま、それを目指して歩いて行きたくなってしまう。
 山にも同種の側面があるけれど、車や電車を駆使しないかぎり見え方に変化を感じづらい山に比べると、近づくほどに着実に大きくなっていく塔というものは、より身近で親しみのもてるランドマークといえそうだ。

 斑鳩寺に行こうと思った理由のひとつに、斑鳩寺の伽藍が、法隆寺を模したミニチュアのような構成になっていると聞き、興味を覚えたこともあった。
 観光用の公的なページには、このように書いてある。

 仁王門、講堂、聖徳殿三重塔など伽藍配置は法隆寺によく似ています。

西播磨遊記

 現地に行ってみると、塔は法隆寺とは逆の向かって右側にあり、俗説とわかった。
 室町期に大規模な火災があって七堂伽藍が焼けつくされたというから、あるいは、火災以前は本当に法隆寺を模した境内であったのかもしれない。

いわゆる「法隆寺式」の伽藍配置。
大講堂の右下には鐘楼がある
仁王門の突き当りが講堂。金堂もない。
うーん、若干無理がありますな……

 ひとつ確かなのは、そういった話が自然に生まれて定着するほどに、この土地の人々が、かの大和の法隆寺と同じ名を持つわが町のお寺に対して、またその直轄領の民として、高い誇りをもちつづけてきたということ。
 そのシンボルが三重塔であり、講堂の仏像群だ。

 講堂で公開されていたのはご本尊の釈迦如来像、薬師如来像、如意輪観音像といういずれも丈六の坐像(高2.4メートルほど)で、時代は鎌倉時代後期。制作時期や手がけた工房も同じだろう。
 年代だけを考えれば、聖徳太子の生きた時代とは遥かな隔たりがある。しかしながら、その容貌は鎌倉という時代にそぐわずに古めかしく、なにより、見覚えがある……
 この像は模古作、つまり、ずっと昔の作品をモデルにして制作されたものと考えられている。そのモデルこそ、法隆寺に残る飛鳥時代の仏像に他ならない。穏やかな表情、細面で平板な顔のつくり、衣文など、じつによく似ているのだ。
 ここ太子町は確かに、大和の法隆寺の「飛び地」なのであった。(つづく

 ※講堂の仏像群の画像は、以下のページに転載されている

縁日の屋台を目指して駆けつけたであろう子どもたちの、大量のチャリンコ


 ※中世の人びとが飛鳥/白鳳/天平を厳然と峻別できていたとは考えがたく、三尊の造形はそれらが漠然とミックスされたイメージをもととしたものだろう。それでも、ベースにあるのはやはり飛鳥仏かと思われる


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