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縄文の食生活からダイエットをすることは本当にいいのか考えた

「大学生時代、ほうれん草ダイエットしたことがあるねん」
ダイエット話になると体験談として語る「ほうれん草ダイエット」
方法は、「ほうれん草しか食べない」というとてもシンプルなもの。
これは、有名な先生が提唱している方法でなければ、友人からの口コミでもない。
「ほうれん草が好きだ」という理由で独自に編み出した方法である。
みるみる痩せていき-3㎏になった。
「よし!成功だ!!!!」
と、歓喜に満ちたのは束の間、体調が悪くなりリバウンドしたのでほうれん草ダイエットをやめた。
ただ、「生きるために食す」という義務感が拭いきれず食事を楽しめないでいた。

なんでそんなことを思い出したかというと
石棒クラブでのXのスペース配信「今さら聞けない!?そもそも縄文時代ってどういう時代なの?」に参加したからだ。

https://twitter.com/i/spaces/1YpKkwLYBRmKj

縄文時代の土器を使って煮炊きをしていたものとして言われているのが、どんぐり、とちのみ、くるみ、くり。
(くるみやくりって縄文時代から続く食材だと思うと尊い、、、!)

これらは人間が管理して栽培するというよりゆるやかな関わり方だったと言われている。

👇栗の木とのゆるやかな関わり方とは?

栗に卵が孵り、虫が生まれてイモムシみたいな幼虫がガのような成虫になり、また栗に卵を産み付け…というのが毎年繰り返される前提だとする。
縄文人は、卵を産みつけられる前に栗を食べてしまう状況を続けることで卵を産む虫の数を毎年減少させたと想定されている。
また、木材が必要なときは新しい栗の木がなっていることを確認し、古い栗の木を切っていたと考えられる。
総じてこれらの工夫から栗を食べられる状況を続けていたと想定されている。

自然をコントロールしているかのように思える現代とは違って、自然があるからこそ我々がいるという考えを感じられる。

恐らく、食事することに関しても、
「自然のものをいただいている」という感覚がより強くあったはず。
わたしたちは濃い味のものに慣れてしまっているが、
繊細な舌が素材そのものの味を噛み締めていたに違いない。

いま思えば、わたしが「食事」を好きになったのも「自然からいただいている」感覚を理解できたからかもしれない。

ほうれん草ダイエット後、「白米を食べない」というプチダイエットを続けていた。
結果も特にでなかったので「食べても食べなくても一緒やったら食べよう」という考えにいたり、2ヶ月ぶりに白米を食べた。

納豆をかけずに純粋に白米だけ。
「あれ、こんなにおいしかったっけ」
味覚がリセットされたのか、白米本来の甘さが舌に伝わった。
うそみたいだが、稲作の風景と米農家さんの姿が頭に浮かんできたのだ。
こんなにおいしいものを太る諸悪の根源と決めつけていたことに後悔もした。

そもそも食生活や生活習慣を見直さず、「食べない」ことで手っ取り早く痩せようとする魂胆がよくなかった。

食材そのものを活かして「食事」をするってめちゃくちゃ楽しいんじゃないの?

白米にそう教えられた気がした。

ダイエットにより食事を嫌いになっている人にむけて、提案がある。
土器で木の実を煮炊きするのはどうだろうか?
恐らく「素材そのものうまみ」を味わえるに違いない。


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