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「推理」はつづくよどこまでも―書評『「罪と罰」を読まない』岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田浩美

 ロシアの大作家ドストエフスキーの『罪と罰』。その著者名も著書名も、いちどは耳にしたことがあるというかたも多いとおもいます。

 でも、いったい、そのなかでどれだけのひとがこの長大な作品をじっさいに「読もう」とおもうまでに至るのか。そしてもし手に取って読みはじめたところで、どれだけのひとがそれを最後まで読みとおすことができるのか。いや、かりに最後まで読みとおした経験があったとしても、その後、どれだけそのストーリーをおぼえていられるのだろうか。

 ちなみにわたしは、この『罪と罰』という作品こそが、有史以来、人類が生みだしえた文学作品のなかで、指折りかぞえてベストスリーには入るだろうことを公言するのにいっさいのためらいを感じません。それだけ、はじめて読んだときのショックは大きく、読みかえすたび、つねになにか新しい発見をあたえてくれる大、大、大、大、大傑作だとおもっています。
 
 さて、今回ご紹介する『「罪と罰」を読まない』は、岸本佐知子、三浦しをん、そして吉田篤弘・浩美夫婦といった4人の語り手が、座談会形式で『罪と罰』を読み進めていくというもの。ただし、彼ら/彼女たちは、『罪と罰』を過去に読んだことがなく、冒頭と最後のそれぞれ1ページ分だけの翻訳をたよりに、そのストーリーを「推理」していくのです。

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「読んだことのない本についての読書会」というのは、なかなか斬新な企画ですが、以前にわたしもピエール・バイヤールの『読んでない本について堂々と語る方法』の書評で書いたとおり、「創造的な読書」のためには、むしろ、その本をほとんど読んでいないほうが都合がよかったりもするわけです。

 じっさい、この「未読座談会」で繰りひろげられる4人の「推理」は、じっさいのストーリーからは脱線につぐ脱線をくりかえしながらも、それじたいが「読む」という行為のゆたかな創造性を感じさせてくれます。

「推理」が行きづまるたび、4人はなかばいいかげんなカンをはたらかせながら(しかしそのカンがしばしば鋭い)、アトランダムにページを指定し、偶然にえらばれたその1ページ分から「ヒント」を得ながら、それまでの推理を修正しつつ、さらなる読みを深めていきます。
 だんだんとその過程じたいが、ひとつの「推理小説」のごとき様相を呈してくるのですが、個人的には、ときにその背中がみえなくなるほど暴走(迷走?快走?)しながらも、しばしば慧眼鋭くストーリーをあててみせる三浦しをんの姿に、なんども笑わせてもらいました。

 本書のあとがきにおいて、三浦しをんは、一冊の本を読むという行いが、「そのひとが死ぬまで終わることのない行い」であることを語ったうえで、読むことの「はじまり」についてもおもしろい指摘をしています。

「読む」は終わらない。じゃあ、いつ、「読む」ははじまるのか。私はこれまで、「本を開き、最初の一文字を目にしたとき」だと、漠然と考えてきました。しかし、そうではないのだと、今回の試みに取り組んでみて、思い知らされた。(中略)
 もしかしたら、「読む」は「読まない」うちから、すでにはじまっているのかもしれない。世の中には、私がまだ手に取ったことのない小説が無数にあります。そして、まだ語られず、私たちのもとに届けられていない物語も、これから無数に生まれてくるでしょう。それらはいったい、どんな小説、どんな物語なのか。愛と期待を胸に思いをめぐらせるとき、私たちはもう、「読む」をはじめているのです。

 推理に推理を重ねたのち、4人は、『罪と罰』をじっさいに読んでみることを決め、そのうえで、日をあらためてふたたび読書会にのぞむのですが…どうも、満場一致でおもしろく読んだみたいですね。その会話からは、コーフン冷めやらぬ空気がビシビシと伝わってきます。

『罪と罰』を過去に読んだことのあるひとにも、読んだことのないひとにも、あるいは、途中で挫折してしまったひとにも、おすすめできる1冊です。
 そうしてきっと、本家の『罪と罰』に手をのばしたくなる衝動にかられるだろうこと請け合いです。


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