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『世界の辺境とハードボイルド室町時代』【読書感想文】

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1 世界の辺境とハードボイルド室町時代という著作

 標記のタイトルは,わかる人にはわかると思いますが,村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を想起させるタイトルです。
 私は村上氏の同作が好きですので,これに引き寄せられて書店の店頭で本書を手に取りました。

 本書は,アジア・アフリカなどの日本人があまり行かない地域を旅し,これを著作化するノンフィクション作家である高野秀行氏と,日本中世史の研究者である清水克行氏の対談をまとめた書籍です。

 中身は対談ですのであちこち飛びますが,基本的には,世界の(日本の目から見て)辺境というべき地域に行くと,そこでみられる習俗には日本の中世,室町時代との共通点があるというような内容がいろいろな例をとって語られています。

 本書序文には以下の記述があります。

いくら自分の目で見ても,アジアやアフリカの人々の行動や習慣は,近代化が進んだ都市に住む外国人の私にはなかなか理解できない。だが,日本史を通して考えれば,「あ,そういうことか」と腑に落ちる瞬間がある。
逆に,清水さんは,「前近代を体感するうえで世界の辺境地の現状はとても参考になる」と言う。歴史学者といえども,何百年も前に生きた人の考え方や生活を想像するのは難しい。今,実際に生活を営むアジアやアフリカの人たちと比べることで,古文書の理解が深まることもあるそうだ。

 以下,いくつか面白いなと思った記述の中からほんの少しを紹介してみたいと思います。

2 未来が後ろにあった頃

 日本語には,「サキ」と「アト」という概念があり,これは空間と時間の両方に用いられる語句です。このうち,空間に関しては前がサキ,後ろがアトとなります。
 他方,時間に関しては,「アト」は未来にも過去にもなります。「サキ」も同様です。
 「先日」の「サキ」は「過去」ですが,「先々を考えて」の「サキ」は未来です。

 これらについて,本作は以下のように述べます。

(清水)…そもそも中世まで日本語は,「アト」には「未来」の意味しかなくて,「サキ」には「過去」の意味しかなかったようなんです。…戦国時代ぐらいまでの日本人にとっては,未来は「未だ来たらず」ですから,見えないものだったんです。過去は過ぎ去った景色として,目の前に見えるんです。…中世までの人たちは,背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく,未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいくような感覚で生きていたんじゃないかと思います。

 これらの価値観に変容が生じたのは16世紀ごろで,この時代に,未来は制御可能なものという認識が広がったのでないかと清水氏は指摘しています。

 そして,この未来と過去の認識及び言語のねじれは,ソマリ語にもみられるそうです。
 また,映画のタイトルとなり人口に膾炙した「Back to the future」という表現も,古代ギリシャにおいて,未来が「後ろ」にあると認識されていたことに由来するようです。

 近代化の進展と人間の時空認識の転換には,全人類に共通する要素があるのかもしれませんね。

3 関所と山賊

 清水氏が学生の頃に南アジアを旅したときに,夜中に長距離バスで移動しているとやたらと料金所があってバスが止まって通行料を払っていたのに,昼間に走ると何もないという経験をしたので,運転手に聞いてみると,「夜中の料金所は山賊が勝手に立てたもので,彼らは昼間になると撤収するんだ」ということだったそうです。

 これについて清水氏は,

「違法な料金所なんだけど,通行料を支払わないと,何をされるかわからないから払うんだ」って。山賊の略奪が「料金所」という形で制度化されてしまっているんです。

と語っています。そしてさらに続けて

実は日本の中世も同じで,関所と山賊は紙一重で,当時は山賊みたいな連中が勝手に立てた関所があちこちにあったようなんです。略奪しない代わりに縄張りを無事に通過するための通行料を支払わせるわけです。

 まあここはあえてかなり簡略化した説明をされているのかと思います。中世の関所にはいろいろなものがあったと思うので。とはいえ,清水氏が指摘するような関所も多かったと思いますし,一応ちゃんとした何らかの権威をバックにした関所でも,それが山賊と何が違うかといわれると違わないんじゃないかとも思わないでもないです(苦笑)。

4 多数決は暴力的手続

 清水氏は,宮本常一氏(民俗学者)の話として,フィールドワークに出ると古文書の閲覧などをする際に,その許可をめぐって村落民の議論に延々とつき合わされて待たされるというような経験を紹介します。

 これに対して高野氏も,コンゴで同様の体験をしたことを告白します。

 これに続けて標題の「多数決は暴力的手続」という一見ショッキングな説明がなされます。

(清水)学生によく「多数決は暴力的な手続なんだ」っていうと,キョトンとするんですね。小学校のころから,多数決は民主主義の基本だって習ってるから。でも,多数決は実は非民主的で,それをやってしまうことによって少数意見が切り捨てられる。
(清水)中世の人もめったなことでは多数決をやらないんですよね。だらだら話し合うことによって,白黒つけない。白黒つけちゃうと少数派のメンツをつぶしちゃうことになるから。

 この辺りは,芦部憲法学にいう立憲主義的な民主政の理解に通じる部分があります。
 確かに,熟議を伴わない多数決は単なる多数の横暴であり,基本的人権の尊重を根本規範の一つとする近代立憲主義にはそぐわないものです。

 徹底した議論を通じた少数意見による多数意見への影響力行使の可能性,最終意見の可塑性こそが,本来あるべき民主政治であるというのはそのとおりです。

 もっとも,およそ民主政治とは程遠いと思われるような中世的ムラ社会が,むしろ熟議と納得というシステムを内包して制度化していたというのは皮肉であり逆説的です。

5 最後に

 以上,とりとめもなく本書で興味がひかれた部分をいくつか取り上げてみました。
 これ以外にも,示唆的な内容は多く記述されています。
 清水氏,高野氏ともに,他の著作について機会があれば手に取りたいと思っています。
 
 なお,一つだけご注意いただきたいのは,著者らは歴史を直線的進化ととらえるマルクス主義史観のような立場には立ちません。ですから,中世とアジア・アフリカの地域に共通要素を見出すからといって,これらの地域が未開だとか遅れているとか評価していることにはなりません。あくまで,いま私たちがなじんだものとしてみている「世界」とは異なるルール,異なる価値観に支配される領域が存在するということを説明するのみです。

 本書には以下のような記述もあります。

(清水)…僕は学生に対していつも言っているんですよ。今生きている社会がすべてだとは思わないでほしいって。それとはぜんぜん違う論理で動いている社会があるんだし,我々の先祖の社会にも今とはぜんぜん違う仕組みがあった。
(高野)今の日本社会は人類社会のスタンダードではないし,僕たちの価値観だってそうですよね。自分はたまたまここにいるだけなんじゃないかっていう気がときどきするんですよね。
(清水)…今後どうなるかわかりませんけど,またソマリのような,あるいは室町時代みたいな世界に戻らないとも限らないですよね。人類は一方向だけに向かって進化しているわけではないので,何かの揺り戻しが起きたとき,日本社会の皮を一枚はがしてみたら,室町的なものが出てくるんじゃないのかな。…中世史を学んで,「あんな社会に生まれなくてよかった」と思ってしまうのは,思考が停止しているということですよね。過去への共感もないですし,自分が今いる場所から出ようともしていない。

 むべなるかな。


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